土方歳三と箱館戦争とその最期 | 戦車兵のブログ

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今日は、鬼の新選組副長の土方歳三が箱館戦争で戦死した日。

 

土方 歳三は、幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国 陸軍奉行並。

 

  諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。

 

 

新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。

 

明治2年(1869年)5月11日(6月20日)、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。

 

享年34。

 

 

 

慶応4年(1868年)10月20日、土方歳三は蝦夷地鷲ノ木に上陸後、間道軍総督となり五稜郭へ向かった。

 

新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。

 

 

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。

 

 

このとき、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。

 

江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。

 

江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。

 

 

その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。

 

箱館の地でも歳三は冷静だったという。

 

箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれるときではない」と言っていたと伝わる。

 

 

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。

 

しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

 

 

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。

 

その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとった。

 

これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。

 

また、戦いの合間に歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。

 

そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったため、部下は笑って了承したという。

 

土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

 

 

そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽丸」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機を逃すな」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。

 

歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。

 

馬上で指揮を執った。

 

 

歳三はその乱戦のなか、腹部に銃弾を受け落馬したとされる。

 

彼の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは、一時勢力を盛り返していたが、必死の指揮も空しく総崩れとなった。

 

彼がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三が撃たれたことを知らされたという。

 

大野は急いで駆けつけたが、彼は既に絶命していたとされる。

 

歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られ、ほかの戦死者とともに五稜郭内に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、未だに埋葬場所は判明していない。

 

享年35(満34)。奇しくも盟友・近藤と同じ享年であった。

 

榎本軍が降伏したのはその6日後のことだった。

 

蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのは歳三だけである。

 

 

辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、島田がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」が、土方の辞世と考えられるとの説を、霊山歴史館の木村幸比古が述べている。

 

歳三が銃弾に倒れたという一本木関門跡に近い若松緑地公園には、土方歳三最期の地碑が建つ。

 

歳三は箱館戦争後も生き延びた説がある。

 

 

「箱館降伏図」には、6日前に死んだはずの歳三(降伏は5月17日)の姿が描かれている。

 

他には、ロシアまで落ち延びたという説まである。