モンテ・カッシーノの戦い | 戦車兵のブログ

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人間は時として歴史的な貴重な遺産を戦争で破壊する愚行をすることがある。

 

1944年2月15日、第二次世界大戦のイタリア戦線で連合軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃した日。

 

モンテ・カッシーノの戦いは、第二次世界大戦中、1944年1月17日から5月19日にかけてイタリアのモンテ・カッシーノで行われた戦い。

 

連合軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ラインの突破およびローマ解放のために企画された。

 

 

1944年初頭、グスタフ・ラインの西半分は、ラーピド川・リーリ川・ガリリャーノ川およびその周囲の尾根や山頂を守るドイツ軍により支えられていた。

 

その中にあって、モンテ・カッシーノ頂上にある修道院(529年ごろ建立された歴史的建築物)には守備兵は配置されておらず、修道院城壁下の急斜面に防御陣地が築かれていた。

 

2月15日、カッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し、修道院は破壊された。

 

 

その理由は修道院が枢軸軍守備隊の監視所として使用される懸念があったためである(枢軸軍がそこに進駐していなかったという主張が認められるまでには長い時間がかかった)。

 

 

爆撃の2日後、ドイツ軍降下猟兵がこの廃墟を守備するために投入された。

 

1月17日から5月18日まで、グスタフ・ライン守備隊は連合軍の4度に渡る攻撃をうけた。

 

この間連合軍は32kmの前線に20個師団を投入しドイツ軍を駆逐したが、甚大な損害を被った。

 

 

 

1943年9月、連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダー指揮の第15軍集団はイタリア・サレルノ上陸作戦(アヴァランチ作戦)ののち、イタリアの“背骨”を形成しているアペニン山脈の東西両側からそれぞれ北方へ進撃した。

 

西側戦線では、マーク・ウェイン・クラーク中将指揮のアメリカ第5軍がナポリからイタリアの“ブーツ”を北上し、東側戦線では、バーナード・モントゴメリー大将のイギリス第8軍がアドリア海沿岸を進軍した。

 

 

 

第5軍は、困難な地形、悪天候および熟練したドイツ軍の抵抗により、進軍が遅れていた。

 

ドイツ軍は、最大のダメージを与えるよう設計・準備された陣地から戦闘を仕掛けては退き、ローマ南方の守備陣地グスタフ・ラインを建設するための時間を稼いだ。

 

当初、ローマは1943年9月には陥落すると見込まれていたが、それは楽観的すぎた。

 

 

 

アドリア海沿岸のイギリス第8軍はグスタフ・ライン東側を突破し、オルトーナを占領していたが、その進軍は12月末には猛吹雪の始まりで停滞し、複雑な地形のため航空支援も不可能であった。

 

このためルート5号線を使用した東からローマへ向かう進軍ルートは非現実的であると判断され、高速道路6号線および7号線ルートのみが可能性として残された。

 

しかしその2ルートのうち高速道路7号線(古代ローマのアッピア街道)は西海岸に沿ってローマ南方ポンティーノ湿地帯に通じており、そこは既にドイツ軍により水没させられていた。

 

高速6号線はリーリ川の渓谷を通過しており、この谷の南側入り口はカッシーノの町後方の多数の丘で構成されていた。

 

いくつかの丘の頂上はドイツ軍守備兵が連合軍の動きを観測するのに最適の場所であり、北への進軍を阻止し、連合軍部隊への直接砲撃を可能としていた。

 

 

アペニン山脈中央に源流をもつ流れの速いラーピド川は、連合軍の前線を横切り、カッシーノを通過し、リーリ川渓谷入り口へ通じていた。

 

その後リーリ川と合流してガリリャーノ川(連合軍から時に「ガリ」と呼ばれた)となり、海へと続いた。強固に要塞化された山岳守備と困難な渡河(流れが速いだけでなく、ドイツ軍はラーピド川の流れを谷の先端で一時的に変えて谷の底で氾濫させ、あらゆる攻撃が困難になるようにしていた)により、カッシーノを要としたグスタフ・ラインは難攻不落の守備陣地に造り上げられていた。

 

 

ドイツ軍と修道院の間では、修道院の歴史的重要性に鑑み、修道士たちが残っている限り修道院を軍事目的で利用しないことで合意した。

 

1943年12月、イタリア方面総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥は修道院内へのドイツ軍部隊の配置・陣地化を行わないよう命じ、そのことを連合軍に適宜通知した。

 

 

このような状況下で、何機かの連合軍偵察機はドイツ軍部隊が修道院内にいたと報告している。

 

修道院は周囲の丘や谷を監視するには最適の場所で、それゆえドイツ軍砲撃観測手にとって天然の観測所と成り得た。

 

ただ、一旦修道院が破壊されてしまえば、ドイツ軍がそこを占拠し、防御陣地を築くためにその瓦礫を利用するという事は明白であった。

 

最終的に修道院破壊につながる軍事的根拠は、実際に占領されているかどうかより、むしろその潜在的脅威のほうにあった。

 

 

 

 

一部の連合軍将校の眼はモンテ・カッシーノ修道院に向けられるようになった。

 

彼らの意見では、グスタフ・ライン攻略を妨げているのは(ドイツ軍砲兵の観測所として使われているであろう)修道院であるということだった。

 

 

イギリスの報道およびニューヨーク・タイムズのC.L.ザルツバーガーは、繰り返し、もっともらしく、かつ詳細に(時にはでっちあげて)修道院内のドイツ軍観測所および砲兵陣地について書いた。

 

アイラ・エーカー中将

 

 

 

連合国空軍地中海方面総司令官アイラ・エーカー中将はジェイコブ・デヴァース中将(連合軍地中海戦域最高司令官ヘンリー・メイトランド・ウィルソン大将の代理)を同伴し、修道院を上空から視察した。

 

 

高度1,200から1,500フィート(約400m)で通過した際、修道院中庭に張られていた物干しロープにドイツ軍の制服が垂れ下がっており、修道院の壁から約46mのところに機関銃座が据え付けられているのを確認した。

 

アメリカ第2軍団ジェフリー・キイス少将もまた何度か修道院上空を飛行している。

 

彼は第5軍G2(参謀第2部、情報担当)に対し、修道院にドイツ軍がいた形跡は見られなかったと報告した。

 

修道院にドイツ兵を見たとする報告が他からあったとき、彼はこう言った。「彼らは長い間調べ、幻を見たのだ。」

 

 

キッペンバーガー少将が明言しているものとして、ニュージーランド軍団司令部の見解では、修道院はそれが完璧な位置にあり、いかなる軍隊でもそれを利用しないはずが無いので、おそらくドイツ軍の主要観測所に使用されているだろうということだった。

 

それに明確な証拠は無いものの、彼は軍事的視点から修道院が占拠されているかどうかが重要なのではないと書き続けた。

 

 

「もし今日占拠されなければ、それは明日かもしれないし、されないかもしれない。攻撃中に敵が予備物資を運び入れるかもしれないし、兵が外の陣地から追い出されたらそこに入り掩蔽壕とされるかもしれない。このような、砲撃に対して完璧な防御で数百の歩兵を保護し、重大な局面での反撃に備えうる建造物が無傷のままある丘を攻撃するよう兵達に求めることはできない。……その細い窓と取り付くのに適さない滑らかな外形のそれは無傷なら完璧な掩蔽壕であるが、爆撃により破壊すれば岩石の残骸や瓦礫の山となり、銃撃、迫撃砲および航空機による機銃掃射を受けやすく、同様に再び爆撃すればそこは死の落とし穴となる。全体的に見れば、私は我々がそれを爆撃しなければその方がドイツ軍にとって有用だろうと考えた。」

 

 

 

 

 

 

第4インド師団のフランシス・トゥーカー少将は修道院丘の攻撃を任され、状況を彼自身で評価した。

 

アメリカ第5軍司令部の情報には修道院の詳細な建設情報が不足していたが、彼はナポリの書店にあった1879年出版の書籍にそれを見つけた。

 

 

彼のフライバーグ宛のメモによると、彼は修道院が現在ドイツ軍によって占拠されているかどうかに関わらず、占拠させないために破壊しなければならない、と結論付けている。

 

彼はまた、45mの高さの城壁はもっとも厚い箇所で少なくとも3mあり工兵が実質対処できる厚さではないこと、そして1,000ポンド爆弾は“ほとんど役に立たない”ため、“ブロックバスター”による爆撃が唯一の手段であると指摘した。

 

 

 

1944年2月11日、第4インド師団長代理ハリー・ディモライン准将はモンテ・カッシーノ修道院爆撃を要請した。トゥーカーはカセルタの病床から修道院爆撃についての問題点を再度指摘した。

 

彼は頻発する熱帯性熱病のひどい発作に苦しめられていた。

 

2月12日、フライバーグは彼の要求を陸軍航空隊に伝えた。フライバーグの空爆に対する要求はしかし、(おそらくアイラ・エーカーおよびジェイコブ・デヴァースの指図で)空軍作戦将校により大きく拡大された。

 

彼らはアメリカ陸軍航空隊の地上作戦支援能力を喧伝する機会を探していた。

 

 

 

アメリカ第5軍のマーク・クラーク中将と彼の参謀長アルフレッド・グランサー少将はまだその軍事的必要性に納得していなかった。

 

 

アメリカ第2軍団とニュージーランド軍団が交替するときアメリカ第34師団長代理バトラー准将は言った。

 

 

「私は知らない。しかし、私は修道院に敵はいないと信じる。すべての敵砲火は城壁下の斜面から発砲されていた。」クラークは連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダーにはっきり言った。

 

 

「あなたが私に直接命令すれば、我々はそれをやります。」彼はそうした。

 

 

爆撃作戦は1944年2月15日朝、142機のB-17フライングフォートレス、47機のB-25ミッチェルおよび40機のB-26マローダーにより行われた。

 

合計1,150トンに及ぶ高性能爆弾および焼夷弾が修道院に投下され、モンテ・カッシーノの頂上は大量の瓦礫の煙の中に崩れ落ちた。

 

爆撃の間、第2軍団の砲兵隊は山を激しく砲撃した。

 

多くの連合軍兵士と従軍記者はその光景を目の当たりにし、歓声をあげた。

 

エーカーとデヴァースはそれを見守り、ジュアンはその所見を聞いた。

 

「……ノーだ。この方法では決してうまくいかないだろう。」クラークとグランサーはその場に立ち会うことを拒み、彼らの司令部にいた。

 

同日午後および翌日も積極的に攻撃は続けられた。

 

砲兵隊の集中砲火と59機の戦闘爆撃機による追加爆撃は廃墟となった修道院の瓦礫の山を激しく揺るがした。

 

 

 

空爆はしかし、空と地上で協調がとれていなかった。

 

航空隊はそれを個別の作戦として天候と他の戦域・戦線からの要請を考慮しながら計画・実行し、地上軍に問い合わせることはなかった(実際にスネークスヘッドのインド兵は爆撃が開始された時おどろいたという)。

 

爆撃はニュージーランド軍団が主攻撃の準備に着手する2日前に行われた。

 

多くの部隊は2月13日にアメリカ第2軍団から陣地を引き継いだばかりで、山地の障害に加えて谷では新任部隊への総攻撃のための装備支給も、絶え間ない悪天候と水没し歩行不可能な地表により停滞していた。

 

 

 

ローマ教皇ピウス12世は爆撃の後も沈黙を通していた。しかし彼の外務大臣ルイージ・マリオーネ枢機卿は、バチカンを訪れたアメリカ上級外交官ハロルド・ティットマンに対し、露骨に言った。

 

「(爆撃は)壮大なる大間違い……甚だしい愚行の一つ。」

 

 

この出来事に関するすべての調査から明らかなことは、爆撃によって殺された人々が修道院に避難していたイタリアの民間人のみだったという事実である。

 

 

その日、修道院に落下した爆弾がドイツ軍兵士を殺したという証拠はないが、当時の爆撃の不正確さのせいで(高高度の重爆撃機から投下された爆弾の10%しか修道院に命中しなかったと評価されている)爆弾が他のところにも落ち、ドイツ軍・連合軍両方の兵士に死傷者が出ている。

 

実のところ、16発の爆弾がモンテ・カッシーノから27km離れたプレゼンツァーノにいた第5軍の上に落ち、クラーク将軍がデスクで書類事務をしていたトレーラーから数ヤードも離れていないところで爆発している。

 

 

 

最初の払暁爆撃の翌日、生き残った民間人のほとんどは廃墟から逃れ、約40名(修道院の地下で生き残った6人の修道士、79歳になる老修道院長グレゴリオ・ディアマーレ、小作農家3家族、孤児あるいは捨て子、重傷および瀕死の者)のみが残った。

 

砲兵隊の集中砲火、再開された爆撃および第4インド師団による尾根からの攻撃ののち、修道士達は廃墟となった住み処を動ける者たちとともに去ることを決意した(2月17日 7:30)。

 

老修道院長はグループを率いてラバ道をリーリ渓谷方向に下り、ロザリオの祈りを暗唱した。

 

彼らがドイツ軍救護所に到着したあと、修道士に運ばれていた何人かの重傷者は野戦病院に移送された。

 

第14装甲軍団長フォン・ゼンガー・ウント・エッターリンを含むドイツ軍将校との会見ののち、修道士達はサン・アンセルモ修道院に送られた。

 

一人の修道士カルロマーノ・ペラガッリは修道院に戻った。

 

のちに、ドイツ軍降下猟兵が廃墟をさまよう彼を見たとき、幽霊だと思ったという。

 

4月13日以降、彼を見た者はいない。

 

 

ドイツ軍第1降下猟兵師団の降下猟兵は修道院廃墟に陣取り、そこを連合軍攻撃隊にとって深刻な問題となる観測所兼要塞に仕立てあげた。

 

 

戦いの最中、由緒あるモンテ・カッシーノ修道院はアメリカ陸軍航空隊により完全に破壊された。

 

攻撃の前に、ドイツ軍ユリウス・シュレーゲル中佐は、修道院図書室にあったキケロ、ホラティウス、ウェルギリウスおよびセネカの写本などおよそ1,200冊の文書・書籍と、その他ティツィアーノ、ラファエロ、ティントレット、ギルランダイオ、ブリューゲルおよびレオナルド・ダ・ヴィンチの名画を含む美術工芸品をバチカンへ移送するよう命じた。

 

この賢明な処置のため、これら貴重な品々は破壊から逃れることができた。

 

 

オリジナルの写本と希少な工芸品は大切に移送された。

 

しかしその後も、修道院には病気で動けない数人とそれを看護するまだ健康な修道女達が残っていた。

 

ドイツ軍将校達は限られた労力と時間の中、まだ動ける修道女達に避難するよう説得を試みたが、修道女達は「病人たちが移送されない限り、ベッドのそばから離れることはできない」と拒否した。

 

5月11日夜にドイツ軍は病人らを残し、修道院北方へ退却を開始した。

 

 

何人かのカトリック教徒のドイツ兵がその命令に異議を唱えた。

 

 

そのうちの一人、第305歩兵師団第305砲兵連隊所属のユルゲン・シュミット伍長もまた、修道女たちを見捨てるという命令を拒否した。

 

36歳になるシュトゥットガルト出身のベテラン兵であった彼は、あのスターリングラード攻防戦の数少ない生き残りであり、ルーテル派に所属していた。

 

彼は直属の士官に対し、自身の良心に基づき、病人と修道士・修道女たちを見殺しにできないと訴えた。

 

ドイツ軍将校もまた、”シュミット伍長にいかなる機器装備も人的援助も与えることはできないが、彼自身の責任において単独で行動すること”を許可した。

 

5月12日1:00ごろ、シュミットは近所の農家からぼろぼろの木製の荷馬車と馬を借り、彼の方針についてきた兵たち(ほとんどが二等兵だった)で救出チームを組織した。

 

 

頂上の修道院に着くとシュミット達は、病人とそれを看護している修道女を運ぶための荷馬車を用意してきたことを話し、一緒に来るように修道女達を説得した。

 

シュミットと彼のチームは病人を荷馬車に載せ、5月12日7:00ごろ、彼らはモンテ・カッシーノの北側から、山をゆっくりと下り退却した。

 

 

シュミット伍長は、彼の勇敢な行動に対してドイツ当局からは何の勲章も与えられなかったが、モンテ・カッシーノの女性修道院長から、何世紀も昔から続く聖ベネディクトゥスの肖像が描かれた金メダルを授与された。

 

修道院長はメダルを彼の首にかけ、彼と彼の献身に対し、短く祈りを捧げた。

 

 

アメリカ合衆国政府のモンテ・カッシーノ爆撃に関する見解は四半世紀を経て、大きな変化を遂げた。ドイツ軍が修道院を利用していたという“動かぬ証拠”はアメリカ陸軍戦史総監部によって1961年に記録から削除された。

 

議会からの質問に対し、同総監部は爆撃20周年記念式典で声明を発表した。

 

「(爆撃の前には)少数の憲兵隊をのぞき、実際には修道院内にドイツ軍がいたようには見えない」アメリカ陸軍の公式記録への最終的な訂正は1969年に行われ、「修道院は実際にはドイツ軍に占拠されていなかった」と結論付けた。

 

 

モンテ・カッシーノで戦った多くのさまざまな兵士の中でもっとも強かった者といえば、おそらくヴォイテクと呼ばれたイランから来たクマだろう。

 

第2ポーランド軍団の第22弾薬補給中隊に入隊し飼育されていた彼は戦闘中多くの砲弾を運んだ。