2.26事件に影響を受けた人々 2 朴正煕 | 戦車兵のブログ

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2.26事件は様々な人達に影響を与えた、その中には後に韓国で2.26事件を研究し軍事クーデターで軍事政権を樹立し韓国大統領となった朴正煕がいる。


朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領は大邱師範学校時代、2.26事件を学校の配属将校室で有川圭一大佐から聞いた。




朴  「反乱を起こした人物が、どうして軍人の鑑なのですか?」

有川 「反乱ではない。国家を革新する革命、昭和維新だ!」

朴  「列強と肩を並べるほどに発展した日本に、まだ国家の革新が必要なのですか?」

有川 「国家は不断に進化していく。その過程で毒草がはびこり、国家を腐敗堕落させることがある。それを除くために、磯部ら(蜂起軍)は身を捧げたのだ。」

朴  「それほどの大事なら、かなりの部隊が動いたのではないですか?」

有川 「いや、1400人ほどだ。」

朴  「1400人!? たったそれだけですか?」

有川 「数が問題ではない。少数でも一糸乱れず動き、主要政府機関を占拠すれば大勢は決まる。」

満州軍官学校を経て日本の陸軍士官学校に学び、終戦時は満州国陸軍中尉であった。

日本名高木正雄。朴元大統領はこの間、多くのことを日本から学んだ。

その中でも特筆されるべきものがこの『2.26事件』なのである。

悪名高き(?)国内引き締めをはかった「維新憲法」や「維新体制」といった呼称も、この『2.26事件』から影響を受けたとみるのが妥当である。

朴元大統領が『2.26事件』に大きな関心を寄せていたことは、出版された多くの伝記や評伝から明らかになっている。



1961年5月16日、朴正熙は兵3500人を率いてクーデターを敢行するのである。

無血クーデターであった。

韓国では「5・16軍事クーデター」と呼ばれる。
以下ウィキペディアより転載

5・16軍事クーデター(5・16ぐんじクーデター、5·16 군사 정변)は、後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター。1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。

5月16日午前3時を期してクーデターは決行され、朴正煕少将を最高指揮官とする革命軍は、漢江大橋付近で憲兵隊50余名と銃撃戦を行った以外は、大きな抵抗も無しに中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分を制圧した。

こうして首都を制圧した革命軍は午前5時、中央放送局の放送を通じて軍事革命が行われたことを全国民に宣布した。
(ウィキペディア)


朴正煕は大統領になると自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。

1974年8月15日、日本統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。

なお、この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し強奪したものであったことや、事件に関与したと見られる朝鮮総連を、自由民主党の一部や日本社会党などから圧力を受けた日本政府及び警察側が擁護し続けたこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。さらに最末期には、核開発などでしばしばアメリカと対立していたとも漏れ伝わっている。

釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。

享年61。
国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。

現在の大韓民国においては政治的な事情もあり、評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為には不当な手段も厭わないものの、私人としては清廉であると評価されつつある。

反日告げ口外交の第18代大統領に就任した朴槿恵は朴正煕の長女である。