江原啓之の説
幼くして亡くなった子どもを見ると、多くの人が「かわいそう」と涙します。百歳を超えた大往生であれば、「長生きできてよかったね」と言います。それは一般的にみればごく自然な感情でしょう。
けれど、よく考えてみてください。命が短かったからといって、イコール不幸でしょうか。長かったからといって、イコール幸せでしょうか。
若くして亡くなったなら、多くの人生経験を積むことはできませんでしたが、周囲にたっぷり愛され、庇護される喜びを味わえたでしょう。はつらつとした若い肉体のままで死ねるのは、ある意味では幸せです。「もっと生きたかった」と悔やむ思いは出てきますが、そのせつなを味わうこともまた学びなのです。
長く生きれば、それだけ多くの経験を積むことができますが、老いて体の自由や経済的なゆとりを失い、子や孫の心配をしながら生きることは、大きな試練ともいえるのではないでしょうか。その意味では、みんな平等なのです。
命の長短によって、幸せ不幸せがきまるわけではありません。
メシアの論証
江原啓之は若くして亡くなった人間のことを『周囲に愛され、庇護される喜びを味わえた人だ』といっているが、たとえばカンデラリア教会事件で殺された子供たちはどうだろうか?果たして彼らがそれに該当するといえるだろうか?
100%ぜったいにいえないはずである。彼らは全員、世間に強烈に憎まれこそすれ、愛された経験も庇護された経験もまったくなかったはずだ。また、ホームレス同然の暮らしだったため、肉体も不健康に衰弱したものだったにちがいない。“若くはつらつとした肉体で死ぬことができた”というものにも当てはまらない。
また、江原啓之はこの説を、平均寿命が80歳をゆうに超える日本のみを対象にして語っているような印象を受けてしかたがない。
世界では毎年、1000万人以上の子供たちが貧困などが原因で5歳未満で死亡しているのだ。何百万人にひとりの難病だとかが原因で死亡しているわけではないのである。貧困さえなければ彼らは全員、もっと遥かに長生きが可能だったのだ。
もしも貧困が完全に存在せず、5歳未満で亡くなる子供がめったにあらわれない世界だったなら、江原啓之の説はうなずける部分は出てくる。しかし世界には複雑な問題から5歳まで生きられない子供たちが無数にいるのだ。
江原啓之は『命が短いからといって不幸というわけではないのですよ』という前に、貧困を消滅させて5歳未満で死亡する子供がめったにあらわれない世界を築いてみせたらどうなのだ?