今年の冬は暖かい日が多かったですが、
ここへ来て急に何日か寒い日が続いていますね。
こういう年は桜の開花も早いのかもしれません。
現在、日本で桜と言えば「ソメイヨシノ」が一般的ですが、これは明治時代以降になって広く植え付けされたもので、
江戸時代以前には、桜と言えば「エドヒガン」や「ヤマザクラ」といった、古くから日本の山に生えている桜のことだったのだと聞きます。
桜だけでなく、明治時代には、いち早く西欧列強に負けない近代国家を築くための欧化啓蒙政策の流れの中で、あらゆる産業や芸術、 教育など様々な場に西洋由来の新しい技術や考え方が導入され、飛躍的な進歩を遂げたといわれていますが、
その一方で、徳川期までの日本古来の文化が旧時代のものとして否定され、失われていったものも少なくないようです。
例えば、浮世絵や水墨画といった日本伝統の絵なども、ヨーロッパでは高く評価されていたにもかかわらず、
当時の日本では「遠近法も知らない幼稚な絵」などと否定され、当時の画家たちは遠近法を取り入れるように国から強く指導されたといいます。
学校の音楽の授業なども、子どもたちを西洋式の音楽に慣れさせて近代的な軍隊で団体行動をとるのに必要なリズム感などを養うために導入されたものであり、
私たちがよく知る童謡も元はそのために作られたものなのだということです。
剣術や柔術などの武術も「旧時代の象徴」とされ、稽古をしていると「新政府に逆らう不逞の輩」と見なされて厳しく取り締まられたりしただけでなく、
軍隊や警察官の訓練や、その予備軍である学校での教育のための課目として導入されると、
古の達人たちの編み出した精妙な「術」を継承・追求するようなことよりも、教官の指示通りに一斉に動くことが出来る「ある程度使える人間」をたくさん養成することに主眼が置かれ、
武士道の精神を都合よく解釈した、思想教育的な色合いを強くしていったようです。
現在、乗馬と言えばブリティッシュ式が中心で、日本古来の古式馬術に触れるような機会は流鏑馬や神事などを除いてほとんど無くなってしまっているのも、
そのような変革の影響なのだろうと考えられますし、
21世紀の現在においてもなお、レッスンでは
いわゆる「体育会系」の、騎乗者の人格そのものを否定するような怒号が飛び交い、
馬術部の学生や少年団の生徒を指導者がアゴで使っていたりするのも、そうした思想の名残りなのでしょう。
長年の欧化啓蒙教育のおかげで、現在の私たちは近代的な建築やデザイン、音楽やダンス、スポーツなどに親しみ、中には世界的に活躍するような人も出てきているわけですが、
そうした教育の中でいつの間にか刷り込まれ、当たり前のものとして定着してきた考え方や価値観といったものに、
私たちは今だに支配されてしまっているような気がします。
例えば、開催がいよいよ間近に迫ってきたオリンピックの中継などでも、選手のこれまでの苦労話や努力の過程などが詳しく紹介され、
これでもか、と言うほどに感動的な演出がされていましたが、
そうした場で多用される「諦めなければ夢は叶う」「夢を追いかける人の姿は美しい」というような言葉や、それによって植え付けられる、ある種の精神主義的な価値観というものは、
時として選手や、彼らの活躍を自分の人生に置き換えて観ている一般の人たちの心を縛り、
競技生活や、学校の部活、仕事、あるいは恋愛などに見切りをつけて次のステージへと進むことを決断するのを難しくさせて、
いわゆる「こじらせ系」と言われるような人たちを生む一因にもなっているように思います。
また、「頑張っていればなんとかなる」といった単純なメッセージによって、
スポーツの具体的なトレーニングの場においても、
動きの質を考えず、ただパワーやスピードをつけるための筋トレに励んだり、
指導者が昔習った「正しい基本」を疑うことなくひたすら反復し続けたあげく、
なかなか上達しないばかりか、身体を傷めてしまったりするような練習方法が蔓延することにもつながっているのではないかと思います。
私たちの行なっている馬術や、武術、芸事などの世界で本来追求されていた精妙な身体の使い方というのは、
外から見ただけではわかりにくいけれど、受けた相手(馬)にとっては全く違う、というような、常人とは質の異なる動き(=「術」)なのだろうと思います。
そうした動きは、「頑張っていればなんとかなる」と初めに習った形を繰り返しているだけでは、頑張ったという努力感は得られたとしてもなかなか辿り着くものではなく、
それだけでは結局は「無駄な努力」ということになってしまうかもしれません。
そうした「質的に異なる動き」を身につけるためには、
まずそれが出来ている状態がどういうものかということを知り、
自分がそれを出来ていないということをはっきりと認識して、
その「違和感」を頼りに稽古を重ねていくことが大切なのだろうと思います。
「違和感」というものは、手が汚れていると感じると洗いたくて仕方がなくなるように、
人間の行動を促す大きな原動力となるものです。
馬術に限らず、人が何かを学ぶ上では、
「あんなことが出来る人がいるのか!」
「どうしたら出来るようになるんだろう?」
と自分が今まで認識していた世界とは違う世界があるのだということを実感させて、
自身のやってきたことに、取り除かなければ気がすまないという「違和感」を抱かせるような、
「トリガー」的な存在となる指導者に出会えるかどうかが、とても重要だと思います。
乗馬の場合、騎乗者にとっての何よりの師匠は馬である、というようにも言われますが、
反抗されたりして何も出来ないのでは、違和感どころか練習になりませんし、
かといって、何もしないのにスイスイ動いてそれで成果が出てしまっても、自分の扶助や動きの間違いに気づきにくい、
というのがなかなか難しいところです。
求めたことを理解して協力的に動いてくれつつも、微妙な身体の使い方の巧拙による反応の違いによって、ちゃんと「違和感」を感じさせてくれる、
そんな『師匠』のような馬に出会えれば、
最高ですね。