~ぶらぶら江戸散歩~vol.79『北町奉行所』 | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回お邪魔しましたのは、『北町奉行所』。
と申しましても、当然ながらに、現在の江戸に『北町奉行所』があるわけでは有りません。

事実として申しますと、『北町奉行所』跡に行って参りました。
その場所は、なんと!!現在は東京駅日本橋口となっております!!
と言うことで、今回は東京駅周辺『北町奉行所跡』をブラブラいたしました。

まずは、お目当ての北町奉行所なのですが。
石碑を探すのに一苦労。何しろ、ここはお江戸のど真ん中。ターミナル中のターミナル駅「東京駅」です。おおかたの検討はつけながらも、人の多さと探す場所の広さに、上京したての人のようにウロウロしてしまいました(笑)。

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東京駅の日本橋口、現在の呉服橋方面の出口ですが、少し当時の江戸の頃のお話をいたしましょう。

千代田のお城(江戸城)は、内濠によって守られておりました。さらにその先に外濠が在り、外界と江戸城を遮る(さえぎる)結界となっておりました。
まあ、まさに、御簾(みす)の向こうの将軍様は庶民にとっては遠い、遠い存在だったのです。

こうして江戸城と江戸の町を遮る堀を渡るためには、橋が存在し、その橋を大きな門が守っておりました。
前段が長くなりましたが、こうして江戸城と日本橋を結ぶ橋のひとつが、呉服橋。そして、それを守る門はいう間でも無く、呉服橋御門でした。

余談ですが、呉服橋の町人の街側には呉服町が発展し、それが街の名前の由来となっております。いよいよ本題ですが、この呉服橋御門内に存在したのが「北町奉行所」でした。

奉行所は、行政と司法と警察の役割を担っておりましたので、お奉行様は、今でいう都知事と、裁判所裁判長、そして警視総監を足した存在でした。以前に「南町奉行所」で奉行所の機能につきましてはご紹介しておりますので、よろしければそちらもご覧頂けると、一石二鳥!!でございます。

さてさて、肝心の「北町奉行所」の痕跡をたどって日本橋口を歩いておりましたが、見つからず、ずっと八重洲口側の方に歩いてみました。もうすぐに、百貨店の大丸の入り口になってしまうのでは!という場所に、とうとう、「北町奉行所跡」の碑を発見する事ができました。

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北町奉行所は、文化3 年(1806) から幕末まで、この呉服橋御門内にありました。
23代目小田切土佐守直年から、43代石川河内守利政までの間ということになります。
徳川将軍家の治世約260年間の中で、北町奉行は上記の通りに43人。南町奉行は50人を数えます。
相当な激務であったことは兼任する職掌の多さから容易に想像がつきます。
北町奉行と言えば、皆さま、一番ご存知なのは、桜吹雪で有名な遠山左衛門尉景元こと、「遠山の金さん」なのではないでしょうか?!

遠山左衛門尉景元は、27代目の北町奉行となりますが、老中水野忠邦が進めておりました天保の改革に反対して、わずか3 年で罷免されてしまいます。
その後、改革のとん挫により、33代南町奉行として復職、以来7年に渡り江戸の治安をおさめたのでした。

こう書き進めますと、「北町奉行所」と「南町奉行所」ってどれくらい離れていたのか?と気になりませんか?!
ブラブラ散歩、ご愛読の方、または2回目の「南町奉行所」をご覧の方は大かた、察しが付いたのではないでしょうか。「南町奉行所」が今でいう、有楽町駅前にございましたので、JR山手線にして一駅分。私も実際に北町奉行所から南町奉行所まで歩いてみましたところ、約1キロの距離。15分とかからずに到着いたしました。

江戸の人々は現代人よりも健脚だったと言われます。という事は、おそらく10分程度で両奉行所間を歩いてしまったのかな~などと想像しておりました。

それでは、皆さま、機会がありましたら「北町奉行所」をブラブラしてみてください。

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