文化家ブログ 「轍(わだち)」

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ポンペイ遺跡を発掘したのは、ナポリのブルボン王朝でした。一方、フランスのブルボン王朝が倒れると、ポンペイ遺跡の発掘を背景に、古代ギリシャ、ローマを理想とする芸術が花開くのです。

今月は、森アーツセンターギャラリー (東京・六本木)で開催されている「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」の作品を紹介しながら、古代ローマ時代の壁画についてお届けします。

※1 ポンペイ遺跡から臨むヴェスヴィオ山


旅行中に私が見て一番好奇心をそそられたものと言えば、ポンペイである。古代にやってきたような気がする

上記は、フランスの小説家スタンダール(1783-1842)の言葉です。

ヴェスヴィオ山の大噴火によって、火山灰の下に眠っていた古代ローマの都市ポンペイ。
本格的に発掘されたのは、1748年のことでした。

発掘を指示したのは、ナポリのブルボン王朝です。

ブルボン朝はフランスの王朝で、太陽王ルイ14世の時代に繁栄を迎えます。

その頃ナポリは、スペインの支配下にありました。
1700年、スペインを統治していたハプスブルク家の王に跡継ぎがいなくなってしまい断絶すると、その後スペイン王となったのが、スペイン・ハプスブルク家出身の母と、フランスのブルボン家、ルイ14世の息子フェリペ5世でした。

しかし、この継承はスムーズにいったわけではありません。

ブルボン家がスペイン王となることに黙っていなかったのが、オーストリア、イングランド、オランダのハプスブルク家です。この反ブルボン家同盟によって、「スペイン継承戦争」が勃発。

この戦争の結果、どうにかスペインの王として認められたフェリペ5世でしたが、ナポリはオーストリアに奪われてしまいました。

しかし、フェリペ5世の息子のパルマ公カルロがナポリを奪回。
1738年に王位を認められ、ナポリ王カルロ7世として即位しました。

このカルロ7世こそ、ポンペイの発掘を主導した人物です。

※2 カルミアーノの農園別荘《ディオニュソスとケレス》


1748年から発掘が進むと、たちまちポンペイはブームに。
考古学的発見や、古代美術に関する本が次々に発行され、ヨーロッパ各地から多くの人がポンペイを訪れ、古代美への関心を高め、憧れるようになりました。

※3 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス


この《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》の絵は、「神のごときラファエロ」のようだと言われ、ラファエロの絵画と比肩され絶賛されました。

こうして台頭してきたのが古代ギリシャ・ローマを理想とする「新古典主義」の芸術です。

一方、フランスでは、1787年にフランス革命が勃発。ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑され、フランスのブルボン王朝が倒されてしまいます。

17世紀から18世紀初頭、フランス王室は、荘厳なバロック様式や優美で官能的なロココ様式で彩られていました。
しかし、フランス革命の前後から、バロックやロココへの反発が起こりはじめます。

王室の威厳を高めた荘厳なバロックは “大げさ”だとされ、貴族趣味で甘美なロココ芸術は“軽薄”だと否定されるようになりました。

もっと高潔で、倫理的で、道徳的な芸術を・・・と考えた人々は、ポンペイ遺跡の発掘を背景に、ギリシャの芸術に理想を求めるようになり、「新古典主義」の絵画や建築がヨーロッパ中で流行するのです。

※4 赤い建築を描いた壁面装飾



※5 踊るマイナス


こちらの、ポンペイで発掘された壁画の一部は、酒や豊穣の神デュオニュソスを信仰する女性「マイナス」が、オリーブの冠を被り、松かさのついた杖を持って踊っている図です。

《踊るマイナス》は、18世紀に版画に掲載され人気となった作品。
「新古典主義建築」を代表する建築家、ドイツのカール・フリードリヒ・シンケル(1781-1841)や、イギリスのロバート・アダム(1728-1792)、アテネのエルンスト・ツィラー(1837-1923)の建築作品に見ることができるそうです。

絵画では、「新古典主義」が流行すると、まるで考古学のような正確さで、古代ギリシャやローマの神話を描いた絵や、宗教画、歴史画が好まれるようになりました。



ナポレオンも「新古典主義」の画家を寵愛。
帝国を築いたナポレオンは、古代ローマの皇帝や、古典の英雄に自分を重ねていたのかもしれません。

冒頭で紹介したフランスの小説家スタンダールも、ナポレオンのイタリア遠征に従軍し、イタリアに魅了された一人でした。

※6 エルコラーノ遺跡の内部


この「新古典主義」がフランス画壇で主流だった19世紀、全く新しい作風で挑んだのが「印象派」の画家たちです。

古代、古典や歴史を正確に、もしくは理想的に描こうとする「新古典主義」に相対し、現代の風景や目の前にある光を描こうとした「印象派」などの新しい芸術が台頭してくると、「新古典主義」の存在は時代遅れとして忘れられていきました。

しかし一方で「印象派」の代表的な画家ルノワールは、「印象派」に限界を感じてスランプに陥った際に、「ポンペイ」の壁画から影響を受けています。
ルノワールは、あらためて古典を熱心に研究し、やがて新たな画風を生み出していったのです。

一夜にして火山灰の下に閉じ込められた古代ローマの街ポンペイは、1000年以上の時を超えて蘇ると、人々に感動と浪漫と憧れを与え、芸術家たちのインスピレーションの源泉となっていったのです。

参考:「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」カタログ 発行:東京新聞、中日新聞社、TBS

 



※1 ポンペイ遺跡から臨むヴェスヴィオ山

※2 カルミアーノの農園別荘《ディオニュソスとケレス》後1世紀
ポンペイ監督局蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※3 《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※4 赤い建築を描いた壁面装飾 前1世紀
ポンペイ監督局蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※5 《踊るマイナス》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※6 エルコラーノ遺跡の内部
©Fototeca ENIT photo: Gino Cianci 写真提供:イタリア政府観光局


<展覧会情報>
「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」
2016年4月29日(金・祝)~ 7月3日(日)
会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

開館時間:午前10時―午後8時(火曜日は午後5時まで)
※入館はいずれも閉館時間の30分前まで
休館日:会期中無休
展覧会サイト:http://www.tokyo-np.co.jp/pompei/index.html
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

 


 


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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

皆さま、またもや番外編をお届けいたします!!
と申しますのも、まさに日本全国、宇津浦々、今月(平成28年6月)に刊行しました『週刊ビジュアル戦国王』の宣伝行脚に出かけておりますので、江戸の地でお尻を落ち着かせている時間よりも、旅する時間が多くなり、必然と番外編が増えるわけでございます~!!

と言い訳はさておきまして、今回ご紹介いたしますのは、肥後の国(佐賀県佐賀市)にございます町『唐人町』にお邪魔して参りました!!

佐賀駅の駅前ロータリーから延びる大通り。ここが佐賀市のメインストリートであります事は一目瞭然です。
足の向くままに、ブラブラと大通りを歩きます。佐賀県は戦国から江戸時代にかけましては、「肥前の国」として龍造寺家から鍋島家が治める領地でした。
九州においても、大きな勢力として栄え、そのため、現在においても、鍋島藩に御用釜でした「伊万里焼」に代表される「磁器」や、「一楽、二萩、三唐津」に代表される茶碗の産地としての「唐津焼」など、工芸品が脈々と伝わっております。

そんな事に想いを馳せながら、街を歩いておりましたら、通り沿いに、恵比寿様の像があることに気が付きました。近づいて、お参りをしながら拝見いたしました。
すると、『唐人恵比寿』と書かれております。鍋島家の石仏彫刻師をご先祖に持つ平川清氏がつくった数少ない恵比寿像の一つとの事。1939年12月にこの地に置かれたそうです。
この像の紹介文にも書かれておりましたが、堀の深い日本人離れしたお顔立ちは、昔、唐人(異国人)が集まって住んでいたこの唐人町にぴったりとの事。

え!ここは唐人町??!!という地名なのかしら?と思い、回りを見渡してみました。
そうしますと、確かに、交差点上の信号機の表示が『唐人町』!!と。

その土地土地には、どう読んだら良いのかわからない地名などがついておりますので、
なぜ、肥前の国の、この地に「唐人町」と名付けられた町が存在するのか?!と興味が湧きました!
直観的には、横浜や神戸など、歴史上、海外との窓口になった地名、特に港が近い土地には、その名前が有りそうな!気がしまして。

じっくりと謎解きをしようと歩きだしたのですが、すぐに答えが見つかってしまいました。交差点近くに由緒を記す看板が!!

それによりますと、『天正19年(1591年)佐賀藩に召し抱えられた高麗人 李宗歓(り そうかん)は、秀吉の朝鮮出兵の際、通訳として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、佐賀に留まることになった。佐賀藩主 鍋島直茂はこのことを不憫におもい、佐賀城下の十間堀川以北の愛敬島村(あいけじまむら)に、慶長4年(1599年)宗歓が連れ帰ったきた高麗人の一団を住まわせた。~中略~唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名付けた。~後略~』と記されておりました。

そうか、それによって、磁器や茶器といった中国、朝鮮の文化が、この佐賀藩で花開いたのか~と、たいへん合点が参りました。

のんびりとした良い風情に、流れる川の水がたいへん美しいこの「唐人町」
平成7年3月22日には、国より「水の郷」にも認定されているそうです。

清流が流れる場所は、「醤油」などの製造にはもってこいの場所と言われます。
やはり、ここ唐人町でも、昔ながらの佇まいを残すお醤油屋さんを発見いたしました!!
佐星醤油と読ませるのでしょうか。蔵をそのまま店舗にしたような、そんなお店でした。
実際にこちらの店舗でも、醤油が販売されているそうですが、荷物になるので今回はお土産にするのは諦めました~。
 
それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「唐人町」をブラブラしてみてください!!


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古代ローマはギリシャを征服しますが、文化面においてはギリシャに支配されたとも言われます。古代ローマの都市ポンペイで発見された壁画の多くもギリシャ神話をもとにしているそうです。

今月は、森アーツセンターギャラリー (東京・六本木)で開催されている「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」の作品を紹介しながら、古代ローマ時代の壁画についてお届けします。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス


征服されたギリシャ人が、猛きローマを征服した

上記は、紀元前1世紀のローマの文人ホラティウス(紀元前65-8)の言葉です。

マケドニア戦争の結果、古代ローマはギリシャの地を征服します。
しかし、古代ローマ人は優れたギリシャの文化に魅了され、ギリシャ語を学び、ギリシャ神話をとりこみ、ギリシャの芸術や建築物を模倣しました。

実際、ポンペイから発掘された古代ローマの家の壁に描かれたのも、ほとんどがギリシャ神話で、ローマのものはめったにないそうです。

裕福なローマ人にとって、ギリシャ文化は必須の教養だったようで、ギリシャ文化を愛好することは、洗練された知識人であることを誇示する手段だったようです。

そうした壁画の中でも、特に巧みで、さらに素晴らしい保存状態で発見されたのが、下の絵《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》です。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス


ポンペイより先に発掘されたエルコラーノで、1739年に見つかりました。

この絵に描かれたギリシャ神話の英雄ヘラクレスは、古代ローマでも盛んに信仰されていました。

ヘラクレスと王女アウゲの子テレフォスは、幼い頃に捨てられてしまいます。

この物語には、いくつかの伝承があるそうで、神託によって娘アウゲの子に殺されると言われた王が、酔ったヘラクレスに襲われたアウゲの生んだ赤ん坊を山に捨てたというものや、アウゲ自身が山に捨て、父を恐れて逃げたというもの、赤ん坊を生んで殺されるはずだったアウゲが、代わりに奴隷商人に売り渡されるというものなど様々です。

アルカディアという地のパルテニオン山に捨てられた赤ん坊は、牝鹿によって養われました。

この絵で牝鹿の乳を飲んでいるのが、その赤ん坊です。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


赤ん坊を見つめているのが、英雄ヘラクレス。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


通りかかったヘラクレスが、奇跡的に幼い息子を見つけた場面が描かれています。

彼らの後ろで座っている女性は、人でも神でもありません。
彼女は、物語の場面となったアルカディアという地を現す擬人像で、果物が盛られた籠はアルカディアの肥沃さを示しています。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


彼女の後ろでシュリンクス(葦笛)を手にしているのは、アルカディアで生まれたパンという牧神。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


右に描かれている翼を持った人物は、アルカディア地方の山の精霊。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


ライオンはアルカディアの山岳地帯を表しています。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


鷲はヘラクレスの父親であるゼウスを示しているそうです。

※1 赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス(部分)


最高神ゼウスは、ローマ皇帝を暗示するとも言われます。

ヘラクレスと並んで人気だった英雄がテセウスです。

※2 テセウスのミノタウロス退治


マントを身に付けた裸体の青年が、怪物ミノタウロスを倒したテセウスです。


※2 テセウスのミノタウロス退治(部分)


テセウスは、アテネのアイゲウス王の息子です。
ポセイドンの息子とされることもあるそうです。

クレタ島の王ミノスは、生贄として捧げるという約束でポセイドンから美しい牡牛を得ますが、王は約束を破って別の牡牛を生贄にしてしまいました。
怒ったポセイドンの呪いによって、ミノス王の娘は自ら牡牛と交わり、牛の頭を持つ怪物ミノタウロスを産み落とします。

育つほど乱暴になるミノタウロスを、ミノス王は迷宮に閉じ込めますが、アテネから少年、少女をクレタ島のミノタウロスに捧げなければならなくなってしまいました。

そうしたなか、アテネの王子テセウスは、生贄役に自ら名乗り出て、ミノタウロス退治に成功するのです。

彼の周囲には、テセウスを歓迎するアテネの少年少女たちが描かれています。

※2 テセウスのミノタウロス退治(部分)


しかしテセウスは、生還できた場合は船に白い帆を掲げて戻ると父アイゲウス王に約束していたのを忘れ、黒い帆のままで戻ってしまいます。
絶望したアイゲウス王は海に身を投げて死んでしまうのでした。

エーゲ海は、このアイゲウス王の名に由来するそうです。

《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》と《テセウスのミノタウロス退治》は同じ建物で見つかった作品です。

エルコラーノで見つかったアウグステウム(通称バシリカ)は、大理石で舗装され、柱廊を持つ大きな広場のような建物だったと考えられています。

ここには他にも絵が描かれていて、その一枚が下の絵、《ケイロンによるアキレウスの教育》です。

※3 ケイロンによるアキレウスの教育


腰から上が人間で、腰から下が馬の姿をしたケンタウロス族は、野蛮な種族でした。
しかし、ケイロンだけは、武術や医学、音楽の技にも通じた賢者。
ケイロンに最も高貴で難しいとされた楽器キタラ(竪琴)を習っているのは、「アキレス腱」の名の由来としても有名な英雄アキレウスです。


※3 ケイロンによるアキレウスの教育(部分)


人間の王と海の女神の間に生まれたアキレウスは、トロイア戦争で活躍し、俊足と無双の力を誇りますが、弱点の踵を矢で射られて命を落としてしまいました。

このように、英雄たちが描かれたこの建物は、いったいどのような役割をしていたのでしょうか。

公共ホールや、皇帝を祀る皇帝崇拝の場などの説もありますが、若者たちの教育の場「ギムナシウム」だったという説もあるそうです。

赤ん坊のテレフォスが幼年期、ミノタウロスを退治するテセウスは少年期を表し、そして、ケイロンに琴を習うアキレウスが青年期を表しているという解釈だそうです。

また、ローマ建国の伝説には、建国者ロムルスとレムスという双子が狼に乳を与えられて育ったというものがありますが、一方、鹿の乳で育ったテセウスは、ペルガモンという都市の建設者でもあります。

そのため、ローマやペルガモンの都市の建設に結びついているという説もあるそうです。

この建物は現在も大部分は埋まったまま。

今でもポンペイやエルコラーノには古代のロマンが秘められているのです。

参考:「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」カタログ 発行:東京新聞、中日新聞社、TBS



※1《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※2《テセウスのミノタウロス退治》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo

※3《ケイロンによるアキレウスの教育》後1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
©ARCHIVIO DELL’ARTE - Luciano Pedicini / fotografo



<展覧会情報>
「日伊国交樹立150周年記念 世界遺産 ポンペイの壁画展」
2016年4月29日(金・祝)~ 7月3日(日)
会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

開館時間:午前10時―午後8時(火曜日は午後5時まで)
※入館はいずれも閉館時間の30分前まで
休館日:会期中無休
展覧会サイト:http://www.tokyo-np.co.jp/pompei/index.html
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

 

 


 


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