文化家ブログ 「轍(わだち)」

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ルイ16世の王としての最初の言葉は、「神よ守り給え、国を治めるには我々は若すぎるのだから」というものでした。

 

今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。

 

■今週の一枚:
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》(※1)■

マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles


―私と国王陛下は趣味が同じではありません。
だって陛下は狩猟や機械いじりばかりなさっているのですから―

 

上記は、マリー・アントワネットの私信の一節です。

書かれたのは1775年4月。彼女がフランスへ嫁いでから5年が経っていました。

 

その前年、ルイ15世の死去により、ルイ16世は国王に即位。マリー・アントワネットは王妃となっています。

 

※2 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《王妃マリー・アントワネット》1778年

ブルトゥイユ城 ©吉田タイスケ/NTV

 

結婚式当日、ルイ16世に初めて会った時、マリー・アントワネットは、おどおどしていて、ぎこちない様子の彼に、あまりよい感じを抱かなかったようです。

 

一方、プロヴァンス伯や、アルトワ伯といった、王の弟たちのほうがずっと快活で、彼女とも親しく、王妃の取り巻きの常連となっていきました。

 

※3 ジョゼフ・シフレ・デュプレシ《ルイ16 世》1774年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot

 

こちらは即位したばかりのルイ16世を描いた肖像画です。

 

ルイ16世は、“いとしきルイ”と呼ばれたプレイボーイな祖父王ルイ15世や、弟たちのような美丈夫ではありませんでしたが、教養豊かで数カ国語を話し、歴史と地理に熱中する青年でした。

内気で温和で、錠前づくりが趣味という生真面目な夫に対し、妻はパリの芝居や舞踏会に心惹かれ、音楽や喜劇の台詞の練習にばかり没頭していたとか。

 

室内装飾やファッションも、彼女の心を捉えたものでした。

 

イタリアから嫁いできた、王の弟たちの妻、義理の姉妹にあたるアルトワ伯とプロヴァンス伯の両夫人は、互いに優雅さを競い合い、張り合っていたそうです。

 

二人の間で王妃も洗練された最新ファッションに熱中していきます。

 

1774年以降、マリー・アントワネットは、パリのモード商ローズ・ベルタンが生み出す最新の流行を追いかけました。

宮廷の女性たちはこぞって王妃を真似し、マリー・アントワネットはパリのファッションリーダーに。

 

王妃が流行させた奇抜な髪型はどんどん高さを増し、「ガーゼやら花やら羽根やらを積み上げて、髪が馬車に乗ることができないほどの高さになり、扉のところで頭を傾けたり、被り物を外して置いたりすることがよく見られるようになった」といわれています。

 

※1 マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

こちらは、マルシャル・ドニ(1745-?)が刊行した王妃の版画です。

凝った意匠の豪華なドレスを着、髪は真珠や花、羽飾りで飾られ、ダイヤモンドのピンを差しています。

 

この版画は、『近代的で優雅な衣服のコレクション』の第1巻に収められました。

モード雑誌の先駆けともいえる、こうした版画は広く流布。

 

貴婦人たちの憧れとなる一方、王妃の浪費ぶりと、装いへの過度の関心は、人々の非難の的になっていきます。

 

批判の声は母国ウィーンにも届き、母マリア・テレジアからは再三にわたり叱責の手紙が届けられました。

 

趣味も性格も異なる国王夫妻。しかし、夫婦仲が悪かったわけではなかったようです。

 

当時、これまでの国王は公認の愛人を持つのが普通でした。

先の王ルイ15世は、有名なポンパドゥール夫人に政治を任せるほどで、彼女が亡くなってからは、娼婦出身のジャンヌ・べキュ(1743-1793)をデュ・バリー伯爵と結婚させ、宮廷に上げて寵愛していました。

 

マリー・アントワネットはスキャンダラスな伯爵夫人と対立。彼女を頑迷に無視し続けたことで、ルイ15世を怒らせ、一時は外交問題になりかけました。

 

一方、ルイ16世は決して愛妾を持つことなく、マリー・アントワネットただ一人を愛したのです。

 

マリー・アントワネットにとって、それは幸福なことであり、不幸なことでもありました・・・。

 

実は、王の失政や王室に都合の悪い事は、愛妾のせいにされることが多く、公的な愛人たちは国民の怒りの矛先を王族からそらす、ある種の役割を果たしていたそうです。

 

しかし、ルイ16世は愛人を持たなかったため、人々の注目は全てマリー・アントワネットただ一人へと向かってしまったのです。

 

決して暗愚ではなかったルイ16世。人々からは慕われ、人気があったそうです。しかし、前王から積み重ねられた問題と財政難に、国民の不満は爆発寸前に膨らんでいました。

彼らの不満の矛先は、王妃の派手な振る舞いへと向かっていったのです。

 

※4 ビュルマ社 シャルル・オーギュスト・べメールとポール・バッサンジュの原作に基づく《王妃の首飾りの複製》1960-1963年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Jean-Marc Manaï

 

さらに追い討ちをかけたのが、「首飾り事件」です。

約550個の特大のダイヤモンドと100個ほどの真珠による首飾り。

上の写真はその複製です。

 

デュ・バリー伯爵夫人への贈り物としてルイ15世へ売られるはずでした。

ところが、ルイ15世がこの世を去ってしまったため、宝石職人たちはマリー・アントワネットに買い取ってもらおうとします。

しかし、王妃は160万リーブルという法外な値段を理由に買い取りを拒否。

 

この状況を見て詐欺を思いついたのが、ラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人です。

彼女と共犯者たちは、王妃から嫌われていたロアン枢機卿に、王妃の代理に首飾りを購入することを持ちかけます。

王妃に取り入るチャンスを狙っていたロアン枢機卿に、薄暗がりの中、マリー・アントワネットそっくりの女に会わせることで、王妃からの依頼だと信じ込ませることに成功。

その後首飾りは犯人たちの手に渡り、バラバラにされ、売られてしまいました。

 

マリー・アントワネットは完全に詐欺の被害者でした。

この事件はすぐに発覚し、犯人たちのほとんどは捕まるのですが、巷では王妃の陰謀説が唱えられ、マリー・アントワネットの評判は決定的に貶められてしまったのです

 

こうした状況が、彼女を非業の死へと導いていきます。

 

続きはまた来週、マリー・アントワネットについてお届けします。

 

参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網 ©2016

 


 

※1 マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

※2 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《王妃マリー・アントワネット》1778年

ブルトゥイユ城 ©吉田タイスケ/NTV

 

※3 ジョゼフ・シフレ・デュプレシ《ルイ16 世》1774年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot

 

※4 ビュルマ社 シャルル・オーギュスト・べメールとポール・バッサンジュの原作に基づく《王妃の首飾りの複製》1960-1963年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Jean-Marc Manaï

 

 

<展覧会情報>

「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」

2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)

会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

 

開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)

     ※入館は閉館の30分前まで

休館日:会期中無休

展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/

 



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ルイ15世の孫とマリー・アントワネットの政略結婚は、ヨーロッパの覇権を争うライバル家同士を結ぶ重要なものでした。そのため、彼女の姿を伝える肖像画には細心の注意が払われたようです。

 

今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。

 

■今週の一枚:《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット》(※1)■

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン
《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット 》1770 年以前
ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien


―この上なく端正な人を見つけることができても、
これほど感じのよいお方を見いだすことはできないと思います―

 

上記は、フランス国王ルイ15世の命を受け、オーストリア皇女マリー・アントワネット(1755-1793)が王太子妃となるための教育係としてウィーンに遣わされたヴェルモン師の言葉です。

 

皇女はさほど教養もなく、大して勤勉でもなかったようですが、それでも彼は、アントーニアと名付けられた少女の魅力に引き付けられたようです。

ここウィーンで彼女を見た人がフランスの地でいかなるイメージで伝えられたとしても、私たちはこの魅力的な表情に見て取れる、優しく、温和で、明るい雰囲気に驚くことでしょう」と伝えています。

 

1755年、マリー・アントワネットは、ハプスブルク=ロレーヌ家の皇帝フランツ1世と、オーストリア大公マリア・テレジアの娘として生まれました。

 

15番目の娘に対し、両親は宮廷作法に重きを置かなかったようで、のびのびと育った彼女は、真面目さには欠けていたようですが、人の心をとらえる魅力的な少女へと成長していきます。

 

当時、台頭するプロイセンに脅かされていたオーストリアは、それまで長く対立してきたフランスとの同盟という、外交革命と呼ばれる決断をします。

 

長きにわたりヨーロッパの覇権争いをしてきたフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家の政略結婚が長い交渉の末に決定。

マリー・アントワネットは、フランス国王ルイ15世の孫(後のルイ16世)へと嫁ぐことになりました。

 

この交渉の間、許嫁であるオーストリアの皇女の姿をフランスへ届けようと、たくさんの肖像画が制作されました。

 

※1 フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン

《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット 》1770 年以前

ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien

 

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン(1726-1790)によるこちらの作品もそうした1枚です。

 

肖像画の中で若きオーストリア皇女はチェンバロの前に座っています。

オーストリアの宮廷は、家族で狩猟に出かけたり、バレエやオペラを観覧したりと、非常に家庭的だったそうですが、マリー・アントワネットは幼い頃から行き届いた音楽の教育を受け、皇女自らバレエやオペラを演じることもあったといいます。

 

しかし、我が娘の魅力を最大限に引き出した肖像画によって、フランス宮廷を魅了しようとしたマリア・テレジアは、なかなか満足する作品を得られなかったようです。

 

許嫁の肖像画がひとつも送られてこないフランスのルイ15世は業を煮やし、オーストリアのシェーンブルン宮殿にフランスの画家を派遣することにしました。

 

当時、最高の肖像画家とされたのは、フランソワ=ユベール・ドルエ(1727-1775)でしたが、彼は法外な報酬を要求したため、彼に代わる画家が選ばれることに。

 

派遣されたのは、ジョゼフ・デュクルー(1735-1802)という、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールの弟子でした。

 

画家は美容師を伴ってウィーンへ到着。

美容師は高く結い上げられていた皇女の巻き毛を下ろし、少し広すぎるおでこを目立たせないようにするという任務を巧みにこなしました。

こうして描かれた彼女の姿に母マリア・テレジアも、フランス宮廷も満足したそうです。

 

フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーンの肖像画でも彼女は毛先を背中に流しています。このことから、この作品がフランス出発の直前に制作されたと判断することができるそうです。

 

※1 チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット(部分)

 

1770年4月21日、14歳のマリー・アントワネットはウィーンの宮廷と家族に永遠の別れを告げ出発しました。

 

※2 アンドレ・バセ 《マリー・アントワネットのヴェルサイユ到着》1770 年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

こちらはフランスの王宮へ向かう行列を描いた作品です。

 

長大な随行団の先頭はフランスとスイスの衛兵たち。続いて護衛、黒と灰色の衣装を着た近衛騎兵、さらに衛兵の近衛騎兵が続きます。歩いている従者たちに取り巻かれた馬車の中にいるのがマリー・アントワネットです。

 

彼女と伴に馬車に座っているのはフランスで侍女を務めるノアイユ夫人です。

彼女は後に王太子妃となったマリー・アントワネットから「エチケット夫人」とあだ名をつけられた人物。

 

5月7日にストラスブールで皇女を迎えた夫人は、馬車の中でもマリー・アントワネットにこれからの作法について説明しているのかもしれません。

 

到着まで、各地で数々の歓待を受ける間、マリー・アントワネットは微笑みを絶やさなかったそうです。

一行は5月16日の昼頃にヴェルサイユへ到着。

結婚の祝福式は、礼拝堂で13時から14時にかけて執り行われ、王族からなる盛大な随行団は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間から、礼拝堂へと王太子と王太子妃を導きました。

 

新郎新婦はとまどう様子もなく、すべてはつつがなく執り行われた」とクロイ公は証言しています。

 

その後も続く祝宴の数々。

同日の夜には、ヴェルサイユ宮殿の新しいオペラ劇場の落成式が執り行われ、結婚を祝う祝宴初日のフィナーレを飾りました。

 

この時、床面が2階と舞台の高さにまで持ち上がる仕掛けによって、広大な空間を作り出し、その中心に王家用のテーブルが設えられたそうです。

 

宮殿内は豪華絢爛に装飾され、贅を尽くした品が結婚記念に制作されました。

 

オーストリアからやってきた王太子妃の若さと愛らしさはフランス人を魅了し、歓喜のうちに迎え入れられました。

 

多くの画家がその肖像画を描くという野心を抱き、遠くへ嫁いだ娘の成長した姿を待ち望む母、マリア=テレジアのためにも、数々の肖像画が描かれ続けることになるのです。

 

続きはまた来週、マリー・アントワネットについてお届けします。

 

参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網

 


 

※1 フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン 《チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット》1770 年以前

 

油彩、カンヴァス 134×98cm

ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum, Wien

 

※2 アンドレ・バセ 《マリー・アントワネットのヴェルサイユ到着》1770 年

ビュラン彫り版画、ステンシルによる水彩 25.2×34.4cm

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

 

<展覧会情報>

「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」

2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)

会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

 

開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)

     ※入館は閉館の30分前まで

休館日:会期中無休

展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/

 



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クラーナハは、大量の作品を世に送り出し、幅広い商業活動で成功し、ヴィッテンブルク市の市長も務めました。彼はいったいどのような人物だったのでしょうか。

 

今月は、国立西洋美術館 (東京・上野)で開催されている「クラーナハ展—500年後の誘惑」の作品を紹介しながら、クラーナハについてご紹介します。

 

■今週の一枚:ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年(※1)■

ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.

―彼の言語はおそらく、そのすぐ後の世代においてすでに、
意味不明な方言と化していた―

 

上記は、ルネサンス期のドイツの巨匠、ルカス・クラーナハ(父)(1472-1547)の作品に対する美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーの言葉です。

 

彼の作品が「意味不明な方言と化していた」とは、いったいどういうことでしょうか。

 

1517年にヴィッテンベルクでザクセン選帝侯の宮廷画家となったクラーナハ。

およそ半世紀にわたり、3代の選帝侯に仕えました。

 

彼が生きた時代は、イタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといった三巨匠が活躍したルネサンスの時代です。

 

ルネサンス時代が到来すると、それ以前の美術はゴシック美術と呼ばれるようになります。

 

ゴシック時代初期、絵画は主に宗教的な目的で描かれました。

教会を装飾し、文字を読めない人にも神の威光や聖書を伝えるために描かれたそれらは、人間味が排除され、平面的で記号的なものでした。

 

しかし、やがて宗教画も人間的な表情で描かれるようになり、徐々に写実的になっていきます。

 

そして、「復興期」とも呼ばれるルネサンス時代が到来するのです。

 

キリスト教支配の下で妄信的な世界に、哲学や科学といった学問が発達した古代ギリシャ、ローマの文化を「復興」させ、人間性を「再生」させようとしたルネサンス時代、芸術家は、古代ギリシャやローマで生み出された彫刻の肉体美や写実的な表現を取り入れるようになります。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチが人体を解剖して学んだように、この時代、解剖学的に正しい人体像や、破綻がなく奥行きのある空間を描くことが最新鋭の絵画でした。

 

しかしクラーナハは、晩年に至っても、そうした流行に完全に迎合することはありませんでした。

 

上の作品のように、彼の描くアダムとイヴは妙に手足が長く、仕草もどこか説明的で不自然。

背景も、奥行きがなく平面的です。

 

ルネサンスの画家は正確な描写や合理的な配列、完璧な調和を目指しましたが、クラーナハの絵画はどこか混沌としていて謎めいています。

 

そのため、ドイツ・ルネサンスを体現したデューラーなどに比べると、美術史的には知名度が低く、ゴシック的、つまり前時代的な作品を描く画家として扱われてきたのです。

 

しかし、クラーナハのこうしたゴシック的な特徴こそが、彼の作品の魅力であり、後世の画家たちを虜にした点でもあります。

 

不自然に引き伸ばされた身体や、奥行きのない背景は、技術的な稚拙さによるものなのでしょうか。

本物らしく描くことをクラーナハはできなかったのでしょうか。

 

彼の作風の秘密を解くカギのひとつに、彼の成功の秘訣も隠されているようです。

 

クラーナハは早くから、誰より「素速い画家」と称賛され、墓碑にも「素速い画家」と称する銘文が刻まれています。

 

その「素速さ」は、単に、クラーナハ本人の筆の速さに由来するわけではありません。

 

彼の顧客は彼の仕える宮廷内にはとどまらず、各地の王侯貴族や有力市民など、きわめて広範囲にわたりました。その注文に応える「素早さ」を持っていたクラーナハは、当時の北ヨーロッパで最も大量の作品を売った画家だとも言われます。

 

「アダムとイヴ」という題材だけでも、クラーナハとその工房は50点以上描いているそうです。

 

毎回凝った構図を生み出しているわけではありません。

 

この作品に描かれているイヴの姿勢や、地面に横たわる鹿などは、実はクラーナハのほかの絵画にも登場し、モチーフやパーツを使いまわしていたことが分かります。

 

※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年

ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.

 

しかし、クラーナハはただ反復していたわけではありません。

 

人物像の姿勢や身振り、周囲の要素を少しずつ変え、アレンジすることで、多彩なレパートリーを生み出していました。

 

こうした作品は、はたしてどの作品がクラーナハ自身の作で、どの作品が工房の職人の作か識別することは困難だといいます。

 

しかしそれは、それほど工房のレベルが高かったもいえます。

 

1508年、クラーナハは、ザクセン選帝侯から紋章を授けられています。

この紋章は、コウモリの翼をもち、冠を戴いた蛇が、ルビーのついた指輪をくわえるというデザインでした。

 

この紋章を授けられて以降、クラーナハは自分の作品や、工房の生産物に、この図像を署名代わりとして描きこんでいきました。

 

※2 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》  1525年

ブリストル市美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives

 

※2 《マルティン・ルター》(部分)

 

このマークは、いわばトレードマークであり「商標」です。

クラーナハこの紋章を描きこむことで、工房作品にブランド価値を与えていったのです。

 

※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年

ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.

 

※1 《アダムとイヴ》(部分)

 

 

《アダムとイヴ(堕罪)》の作品でも、イヴの足元にこの紋章が描かれています。

 

 

 

《アダムとイヴ(堕罪)》のほうでは、蛇の翼が下がっています。

このタイプの紋章が使用されるようになったのは1537年以降であるため、この作品もそれ以降に描かれたことがわかります。

 

平面的な表現と単純化や、画家の個性を消したなめらかな筆致など、一定の品質、統一感のある作品を工房から生み出すために、クラーナハは意図して、大量生産に向くような作品を作り上げていたことも指摘されています。

 

クラーナハの裸婦像の多くは、首元や手首に装飾品が描かれていますが、これは、顔を描く担当、手を描く担当、胴を描く担当を分業化し、その継ぎ目を目立たなくさせるためではないかという説すらあるそうです。

 

※3 ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意(ユスティティア)》1537年

個人蔵©Private Collection

 

工房から、一定品質の作品を供給し続けるクラーナハは、芸術家でありながら、「絵師」や「職人」に近い感覚を持っていたのかもしれません。

 

ルネサンスは、画家がその地位を高め、「職人」から「芸術家」になった時代でもありましたが、そういう意味でも、クラーナハはゴシックの人だったということでしょうか。

しかし、巧みな工房経営術を発揮した「企業家」としては、後のルーベンスやレンブラントにみられる大工房運営の先駆者でもありました。

 

20世紀の芸術家アンディー・ウォーホルは「ぼくは機械になりたい」と洩らし、「ファクトリー」と呼ばれるスタジオを構え、様々なジャンルやメディアを巻き込んだ「総合芸術作品」の実験を行いました。

 

絵画、版画、壁画、家具、祝祭用の装飾まで手がけたクラーナハの工房は、ウォーホルの思い描いた芸術活動に近いものがあったのかもしれません。

 

宮廷画家でありながら、ヴィッテンベルクの市長も務め、そのかたわらに薬種販売業に印刷業、書店業を営み、商才を発揮したクラーナハは、妖しく混沌とした作風とは裏腹に、合理的な人物だったのかもしれません。

 

彼の画面に個性的で激しい筆跡は見られません。画面を覆う筆触は落ち着いていて、静謐。

しかしながら、クラーナハの作品は、決して無個性ではなく、むしろ、圧倒的な個性を放っています。

 

道徳的なテーマをエロティックに描き、合理的な思考で非合理的な作品を描くクラーナハ。

 

彼の巧みな仕掛けは、21世紀の今も、観るものを惑わし続けているのかもしれません。

 

参考:「クラーナハ展-500年後の誘惑」カタログ 発行:TBSテレビ

 


 

※1 ルカス・クラーナハ(父)《アダムとイヴ》 1537年

 

  ウィーン美術史美術館 ©KHM―Museumsverband.

 

※2 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》  1525年

  ブリストル市美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives

 

※3 ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意》1537年 個人蔵

 

 

<展覧会情報>

「クラーナハ展-500年後の誘惑」

2016年10月15日(土) ~ 2017年1月15日(日)

会場:国立西洋美術館(東京・上野)

 

開館時間:午前9時30分 〜 午後5時30分(金曜日は午後8時)

          ※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日(ただし、1月2日(月)、1月9日(月)は開館)、

    12月28日(水) 〜 1月1日(日)

 

展覧会サイト:http://www.tbs.co.jp/vienna2016/



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