文化家ブログ 「轍(わだち)」

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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回も、またまた遠出をして参りました。
新幹線が延線され、アクセスがたいへん便利になりました『金沢』。
2015年に長野~金沢間が開通しました事で、東京から金沢まで乗り換え無でスムーズに行けるようになりました。北陸新幹線『はくたか』を利用すれば、最短で2時間28分でお邪魔することが可能です!!

私も、生まれて初めて、「金沢」にお邪魔いたしました!!
加賀100万石とよく言われます。戦国時代を豊臣秀吉とともに戦い、戦国統一に尽力した加賀藩祖「前田利家」。
太閤秀吉の政権を大老の一人として支え、秀吉没後は、同じく大老であった東国の大大名「徳川家康」の牽制に努めた戦国大名でした。

藩祖「前田利家」の逸話はたくさん残されております。
血気盛んであった利家、キリスト教を保護した利家などなど。
私は、今回の「金沢」で、そんな利家の足跡をたどるべく、「尾山神社」に参拝して参りました。
金沢駅から、城へと延びる大通り。その途中に、城の郭の外壁を守護するかのように立つ神社。それが「尾山神社」です。
金沢城の旧名が、尾山城。まさにこの神社の名前の由来は、金沢の由来そのもののように感じました。

「尾山神社」の祭神は、「前田利家」と、その妻「まつ」。
大河ドラマでも描かれた二人です。当時、今の真田丸のようにご覧になられた居た方も多いのではと思います。

 

前田利家像まつ像

 

さて、この「尾山神社」。到着して。まず驚かされますのは、その外観。
鳥居の中にある建物(神門)が、いわゆる日本建築ではありません。まるで、ヨーロッパ、いや南蛮と当時呼ばれたポルトガルなどで見かける建物を容易に想像いたしました。見方によりますと、中国的な要素も入っていて、ここが本当に日本の金沢なのかと錯覚いたします。

 

尾山神社 神門


ただ、その建物に飾られた家紋は、「剣梅鉢」。まぎれもなく、前田家の家紋です。
そして、境内に入りますと、金の兜。さらには、馬にまたがり槍を高々と掲げる「前田利家」の像。

 

梅鉢門利家兜

 

 

 

 

前田利家像


金の兜は、利家が身に着けていた具足の兜をかたどったもの。
馬にまたがる利家像は、『槍の又左』の異名をとった利家ならではの像。
当時、槍の名手で血気盛んであった利家は、常に三間半(6メートル30センチ)の槍を持っていたと言われます。
さらに、その背中に背負った袋のようなもの。これは母衣(ほろ)とよばれた武士の道具。
本来は敵の矢を防ぐ袋でありましたが、鉄砲が戦いの主な道具となってよりは、大将の使い番として、メッセンジャーの役割を果たしました。
大きな母衣をまとう事で、敵にも味方にも存在が見つけられやすく、たいへんに危険な役目であったと思います。

利家は、主君、織田信長の2つの母衣隊(黒・赤)の赤母衣隊を率いていたと言われます。
このエピソードだけでも、いかに勇猛な武将であったか想像がつきやすいのではないでしょうか?!

さて、江戸幕府開府以降は、名だたる外様大名が徳川家を守るために、幕府よりお取りつぶしを受けていきます。たとえば、関ヶ原西軍の大将であった後、裏切り東軍を勝利に導いた「木小早川秀秋」。熊本城を築城した「加藤清正」。賤ヶ岳七本槍の一人、「福島正則」。
さらには、徳川家の身内であるはずの親藩も「徳川忠輝」など、その数は江戸開府から大阪城落城までの15年ほどの間に40家にものぼったのです。

仙台藩「伊達家」60万石、薩摩藩「島津家」70万石。こうした藩もさることながら、加賀前田家100万石は、まさに、徳川幕府にとりましては、目の上のたんこぶであったに違いありません!!

藩祖「前田利家」も太閤秀吉が無くなってのち、ほどなくして世を去ります。
そんな前田家は、幕府は改易したくてたまらない相手でありました。

そんな前田家が、いかに江戸時代250年間を生き抜いたか。その哲学は、前田家ひいては加賀藩に脈々と江戸時代を通じて続いておりました。
正解は、「文化」を発展させる事。武家として、藩の守りを固めるのではなく、文化に力を注ぐことで、幕府の目をそらし、さらには「文化」を通じて藩に富と人材をもたらす事。
まさに、戦国乱世で荒廃した京の都を、金沢の街で再現することにあったのです!!


加賀友禅、金箔、楽茶碗の脇釜であった大樋焼。さらには、京都に劣らぬ茶屋街が、そして食が、この金沢の地で大成する事となったのです。

そんな加賀藩の基礎を築いた「前田利家」。

今回は、尾山神社に詣でることで、その本髄の一端を覗くことができたように思います。

それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「金沢」をブラブラしてみてください!!



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エミール・ガレといえば、自然を愛し、花や昆虫などをモチーフにした作風で知られますが、文学もまた、彼を魅了した一つでした。

今月は、サントリー美術館(東京・六本木)で開催されている「オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ」の作品を紹介しながら、エミール・ガレの生涯をご紹介します。
 

■今週の一枚:栓付瓶「神秘の葡萄」(※1)■

明かりの房、光の果肉
 神秘の葡萄よ…
 またその神聖なる樹木の垣根は炎の葡萄棚のよう
 その火は涙、その実は目だ!
  モンテスキュー



上記は、フランスのガラス工芸家エミール・ガレ(1846-1904)の作品《栓付瓶「神秘の葡萄」》に刻まれている銘です。

このガラス瓶は、フランスの詩人ロベール・ド・モンテスキュー(1855-1921)が、発表前の詩をエミール・ガレに贈り、その詩からインスピレーションを受けたガレが制作したという作品です。

この酒瓶は、上記の銘とともに「ガラス工たちに霊感を吹き込む素晴らしい詩人、モンテスキュー伯爵へ/1892年」という言葉も刻まれ、モンテスキューへと贈られました。

※1 栓付瓶「神秘の葡萄」


2人は、1889年のパリ万博で知り合いになると、共同制作するまでの仲となり、モンテスキューはインスピレーションの助けとなるように、発表前の詩をガレに贈っていました。

ガレはそのことに感謝し、「人々が楽しむ前に、耳に快いあなたの詩(うた)を聞かせてくださったことに感謝いたします。それは私の工具に夢を与え、生命とつばさを素材に与えて突然脈打たせたのです」と作品の添え状に記しています。

このようにガレは、文学作品からインスピレーションを受け、さらには、その一節を作品に刻み込むことがありました。

ガレといえば、植物学者としても認められ、作品に動植物を写実的に表現したことで知られています。

※2 習作「葡萄の蔓」


しかし彼は、学生時代には、フランス語論文、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語、哲学、修辞学などで、次々と最優秀賞を獲得するほど、文系科目も得意だったようです。

それまで、一般的に器に文字が刻まれるのは、依頼主の求めに応じた記念の銘などがほとんどでした。
ガレが積極的に詩文を作品に取り入れるようになったのは、1884年のこと。

第8回装飾美術中央連盟展に出品した作品の解説書の中で、フランスの伝説や詩人から主題を借りた作品のことを、自ら「もの言うガラス」と呼んでいるそうです。

この手法は、時としてエリート趣味との非難を受けることもあったとか。
それでもガレは、「作曲家がオペラの台本から構想を得ることは異論なく許されるのに、なぜ装飾家には認められないのでしょう?」と芸術雑誌で述べ、自らの作品世界に文学を取り入れていきました。

※3 昼顔形花器「蛾」


こちらとよく似た作品が1900年のパリ万博会場の写真に写しだされているそうですが、その作品には、「不動の暗がりより逃れいでよ。ルコント・ド・リール」との刻銘があったとされます。

この作品もまた、フランスの詩人ルコント・ド・リール(1818-1894)の詩の世界が織り込まれているのでしょう。

昼顔の花弁にはうっすらと浮かび上がる筋が見えます。
花に寄り添う「ホウジャク」という蛾も、美しい色をした羽の細部までが作りこまれ、複雑な自然の形態が、高い技術によって表現されています。

※4 意匠「昼顔形花器〈蛾〉」


こちらの、《意匠「昼顔花器〈蛾〉」》には、「赤みがかったヴァイオレットと二重になった褐色108/アイボリー45‐青白く、より上品に/60、虹色に輝く186/抑えた74」などの書き込みがあるそうです。

こうした細かい指示によってこの複雑で繊細な作品が作り出されたことが読み取れます。

学生時代、文学や音楽に親しみ、熱中し、故郷ナンシーの豊な自然を愛したガレ。
父の仕事を受け継ぎ、さらに技術を練り上げてガラス工芸界に革新をもたらしたガレ。
彼の熱中は、いずれも作品の中に織り込まれ、世界を魅了する芸術として結実していったのです。


参考:「オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ」展覧会カタログ 発行:サントリー美術館

 



※1 栓付瓶「神秘の葡萄」 エミール・ガレ 1892年
オルセー美術館
Lidded bottle, ´Mysterious Grapes´
Emile Gallé, 1892
Musée d´Orsay
©Musée d´Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

※2 習作「葡萄の蔓」 エミール・ガレ 1885-1920年
オルセー美術館
Study: Vine
Emile Gallé, 1885-1920
Musée d´Orsay
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Tony Querrec / distributed by AMF

※3 昼顔形花器「蛾」 エミール・ガレ 1900年
サントリー美術館
©藤森武
Binweed-shaped vase with moth design
Emile Gallé, 1900
Suntory Museum of Art
©Takeshi Fujimori

※4 意匠「昼顔形花器〈蛾〉」 エミール・ガレ 1899年
オルセー美術館
Design for bindweed-shaped vase with moth design
Emile Gallé, 1899
Musée d´Orsay
©RMN-Grand Palais (musée d´Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF



<展覧会情報>
「オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ」
2016年6月29日(水)~8月28日(日)
会場:サントリー美術館(東京・六本木)

開館時間:10:00~18:00(金・土は10:00~20:00)
※8月10日(水)は20時まで開館
※いずれも入館は閉館の30分前まで
※shop×cafeは会期中無休

休館日:火曜
※8月16日(火)は開館

展覧会サイト:http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_3/
問い合わせ:03-3479-8600

 



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江戸開府より約400年。東京下町には、江戸の息吹が今なお息づいております。
身近な江戸をぶらぶら散歩。新富に生まれた私、中西聡。
八丁堀・日本橋を中心に、江戸の町のちょっとした情報をお届けいたします。

今回、お邪魔しましたのは、『業平橋』。
東京の新名所「スカイツリー」が出来た今では、すっかりとその名を聞かなくなってしまった地名かも知れません。
『業平橋』(なりひらばし)。まさにスカイツリーの御ひざ元。
私もスカイツリーに出かけながら、ブラブラ散策いたしました。

 

スカイツリー


散歩中、ちょうど地元のキャラクター「おしなりくん」と遭遇。

握手をしましたら、名刺をもらいました~!! 

 

 

おしなり商店街イメージキャラクター おしなりくん


おしなり君と別れ、少し歩きますと橋が見えて参りました。まさに「業平橋」
かつて流れておりました大横川(今では親水公園)に掛る橋の名として、またこの一帯のエリアの地名として「業平橋」と呼ばれております。

さて、そもそも、業平??と思われる方が多いかと存じます。
地名にもなった、業平、本名「在原業平」(ありわらのなりひら)について、まずはお話しして参りましょう。

時は平安時代前期。業平は、父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王の子として生まれます。
非常に高い身分の出自ながら、宮中で起こりました平城上皇と嵯峨天皇とが対立に巻き込まれ、事件落着後に、臣籍降下(皇室の身分を離れ、家臣の位に降りること)し、姓を「在原」となのるのでした。

業平は、今でいう、超イケメンであったようです!!
ある一人の男の成人になってより死に至るまでの物語、それも恋愛の物語を多くつづった「伊勢物語」。この主人公は、業平に見立てられることが多い事からも、そんな恋愛を繰り広げた業平は美男子であったに違いないとも言われております!!

他にも、業平は歌の名人としても知られております。
醍醐天皇の命で紀貫之などを中心に、古い時代の名歌を選んだ「古今和歌集」。
その序文に6人の代表的な歌人の作風が記されております。
在原業平につきましては、こう記されております。


ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。

しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし

業平の歌には、花の色彩は少なくとも、におい立つほどの香がある。まさに、それほど、溢れる思いが歌には詰まっている。という意味合いでしょうか。
業平はじめ、このように記された6人の歌人を六歌仙と後世の人は呼ぶようになるのです。

さて、本題の業平橋ですが。
この地名がついた由縁は、業平終焉の場所につくられた塚がこの地にあり、それより転じてこの地名になったと言われております。
今では、業平橋がかかっておりました大横川は親水公園となり、近所の子供たち、家族連れがのんびりと過ごせる憩いの場になっております。

 

親水公園


業平の歌を有名にしました漫画、アニメがございます。タイトルは「ちはやふる」。
最近では映画化もされ、業平の名を知らなくとも、その歌は耳にされた方も多いのではないでしょうか。

「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」

神々が活躍した神代でもこんな事はなかったでしょう。 竜田川を流れる水が、これほどまでに、真っ赤に染まることは・・・

竜田川に浮かぶ紅葉に埋め尽くされた川が、さも水が赤々と燃える様を読んだ歌と言われますが、その裏には隠されたメッセージが。
「ちはやふる」にても謎解きはされておりますが、業平には熱烈な恋をした人がおりました。それは、藤原高子。しかし二人の思いは権力によって引き裂かれます。高子は治天の君、清和天皇の后として入内してしまいます・・・。

時は流れ、二条后と呼ばれるようになった高子。殿上人として内裏に出仕した業平。
再びであった二人。この際に、業平が忘れられぬ二条后への思いを込めた歌とも言われております。

平安の時代も、現代も、人の感情にはさほど変わりはないものだな~と思います。
そんな業平の名が残るこの場所。
それでは、ぜひ皆様も、機会ありましたら、「業平橋」をブラブラしてみてください!!


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