いぶし銀の名匠 (Weingut Ansgar Cluesserath)
艱難辛苦の末、モーゼルにやって来た。これまでなら「リースリングの聖地に勇躍足を踏み入れる」なんて
雰囲気の筈だったのだが、今回はやっとこさどうにか辿り着けたという安堵にも似た心持ちで、トリッテンハイムの
居酒屋で1杯引っ掛けてから床に就く。そして夜が明け、窓外に建ち並ぶスレート屋根の家々を目にして初めて
モーゼルにやって来たのだという実感が湧くのであった。
中部モーゼルの村 トリッテンハイム(Trittenheim)は、ワイン村としてだけではなく、ボージュ山脈に源を発し
コブレンツでライン河に合流するまで幾多の蛇行を繰り返すモーゼル河が、中でも特に180度向きを変えて
ダイナミックなループを描いて流れる様を一望出来る景勝地としても知られる。だがこの村を代表する特級畑
トリッテンハイマー・アポテーケ(Trittenheimer Apotheke)は、ピースポートのゴルトトレプフェン(Goldtroepfchen)
やヴェーレンのゾンネンウーア(Sonnenuhr)、ブラウネベルクのユッファー・ゾンネンウーア(Juffer-Sonnenuhr)、
或いはユルツィヒのヴュルツガルテン(Wuerzgarten)などといった他のモーゼルの特級畑に比べると、いまひとつ
影が薄い。おまけにこの地にはズバ抜けて評価の高い生産者がいない(とされている)事も、トリッテンハイムが
地味な存在に甘んじている要因のひとつであろう。
そんなトリッテンハイム村にアンスガー・クリュッセラート醸造所がある。もちろん日本では殆ど知られていない。
ワインも殆ど輸入されてないと思う。だが4年程前にここの2004年産リースリングを香草園さん に送って貰って
飲んで以来、グラスに注いだあと刻々と移り変わりを見せるその味香の様が非常に印象深く、なかなか心から
離れないでいたのである。どんな人物がこのリースリングを造っているのか是非いつか話を聞いてみたい、と。
その後、この醸造所を経営する父娘の姿や木樽にこだわるワイン造りの様子を取材した映像を観る機会があり
それでいて手を尽くしてもその後二度とここのワインは入手が叶わず、ますますその思いが強くなっていくことと
なった。こうなったら直接赴いてワインを買い付け、今後のルート作りをするしかなかろう。そんな思いを抱いて
いつもなら何を置いてもまずルーヴァー谷へと直行するところを、敢えてこのトリッテンハイムまでやって来たと
いう訳である。
村中の多くの醸造所がそうであるように、このアンスガー・クリュッセラート醸造所もゲストハウス(Gaestehaus)
つまり民宿のようなものを経営している。今回は残念ながら満室で泊まれなかったが、すぐ隣の別の醸造所が
経営する宿に泊まり、夕食はこれまた別の醸造所が併設するレストランで料理とともにそこのワインを愉しむ。
ここでは村中の至る所に醸造所があり、宿にもレストランにも居酒屋にも多種多様な地元産のリースリングが
満ち溢れているのである。これを楽園と言わずして何と言おうか。
朝食後ぶらっと葡萄畑を散歩してから、約束の11時に醸造所の呼び鈴を鳴らす。ドイツ人にしては小柄な方だが
ガッシリとした肉付きの逞しい親父さんが出て来て我々を迎え入れてくれた。醸造所のオーナー、アンスガー・
クリュッセラートさんその人である。宿泊客用の食堂としても使われているのだろうか、まだ真新しく清潔感のある
応接室で待望の試飲は始まった。
1. 2008 Weisser Burgunder trocken
まずはヴァイスブルグンダーからスタート。クリーンで木質のニュアンス。酸はマイルドで丸くやわらか。
シーファー(粘板岩)土壌では、グラウブルグンダー(ピノ・グリ)などに比べるとリースリングに似てより繊細な
ヴァィスブルグンダー(ピノ・ブラン)が本領を発揮し、南の地域のものより軽くてエレガントに仕上がるという。
この醸造所では2002年からトリッテンハイム村のアルタルヒェン(Altaerchen)という畑でヴァイスブルグンダーを
生産している。この畑はアポテーケよりも格は落ちるが、この醸造所が所有する川向いの区画は日当たりが
良いので遜色ないとのこと。
2. 2008 "Vom Schiefer" Riesling trocken
お次はリースリングの辛口を3種。鉱物香。酸がキリッと引き締まってスタイリッシュ。残糖は5~6g/l。
3. 2008 "Steinreich" Riesling trocken
鉱物の味香。酸が引き締まって硬いながらもしっかりとした酒駆。果実の凝縮度も素晴らしい。
石の多い急斜面、大部分は特級畑アポテーケから、一部ピースポートのゴルトトレプフェンのシュペートレーゼ
クラスの収穫を用いて造ったという。半年位してから開いて来るのが飲み頃で、デキャンターしても良いとのこと。
造り手としては11.5%程度がここの至適辛口アルコール度数であるという。
4. 2008 Trittenheimer Apotheke Riesling trocken
古木の収穫を使ったアルテ・レーベン。古木は畑の中でも岩場に近い作業の困難な場所にあるとのことで、
最も古い木は樹齢100年にも達し、岩盤を貫いて地中10メートルもの下まで根を張っているという。
酸がストレートに迫って来て、果実もふくよか。そして何よりもミネラルが細かく繊細。力強くも細やかな味わい。
奥行きのある見事な辛口。10年後でも充分美味しいだろうとのこと。
5. 2008 "Vom Schiefer" Riesling feinherb
半辛口。酸と仄かな残糖に、鉱物味も負けじと主張。ややベタッとしたバランス。残糖10~15g/l。
6. 2008 Trittenheimer Apotheke Riesling Kabinett
ここから甘口。酸と甘味の凝縮度の高い好バランスに、見事に鉱物のアクセントが効いている。残糖40g/l。
7. 2007 Piesporter Goldtroepfchen Riesling Spaetlese
蜂蜜感のある残糖。酸のちゃんとしたベースがあるので素晴らしいバランス。乾燥した収穫年だったが、水分を
豊富に含んだ少し重い土壌のせいで果実味がたっぷり。ピースポート村には0.4haの畑を所有しているとのこと。
8. 2008 Trittenheimer Apotheke Riesling Spaetlese
鉱物香。ミネラルと果実味のより繊細なバランスが良く、スタイリッシュな大人の味わい。
ちなみにこのシュペートレーゼの収穫では、1本の葡萄の木から3~4房しか採れなかったという。
9. 2006 Dhron Hofberger Riesling Auslese
当地から約3km離れたドーロン村にも畑を所有しており、そこからのアウスレーゼ。125エクスレ。
腐敗の多い年で、傷んだ粒を丁寧に手作業で取り除いて造ったという。
凝縮したドライフルーツの甘味。その割にはサッパリとベタつかない。30年は軽く保つだろうという。
試飲しながら延々と続くドイツ語のやり取りには残念ながら早くてなかなかついて行けなかったが、香草園さんの
的確な解説のおかげで、ワイン造りから個人的な話題に至るまで実に様々な話を聞くことが出来た。
醸造は木樽を用い、すべてが天然酵母による自然発酵である。かつて醸造学校では、培養酵母を用いた
ワイン造りが教えられてそれが世の中の流れであったが、10年ほど前からまた天然酵母が見直されている。
それは天然酵母を用いる方がそれぞれ味の異なる樽の個性が出て面白いからで、例えば培養酵母で造った
ワインは5月頃には早々に開いて美味しいのだが、その後すぐにアロマが落ちていってしまう。これに対して
天然酵母を用いたワインはゴツゴツとしていて開くのは遅いが、4~5年で徐々に味わいが開いて来て寿命も
長いのだそうである。
また上位クラスの辛口リースリングはまだまだ飲み頃には程遠いのだが、最近は客の需要が早まっているため
まだ早いこの時期にリリースしている。彼の父親の時代には、ワインが出来てから1年はケラーに寝かせた後
出荷していたそうである。年間生産量は6~7万本で、現在その70%が辛口、残りの30%が半辛口や甘口である。
意外にも極少量ではあるが、業者を通じて日本にも輸出されたことがあるという。
良い辛口を造るためのポイントは、ワイン酸(酒石酸)とリンゴ酸、および乳酸のバランス。リンゴ酸が多いと
辛口の場合は酸っぱ過ぎて飲めたものではなくなるが、マロラクティック発酵によりリンゴ酸が乳酸に変化すると
これがワイン酸とリンゴ酸を上手くまとめてくれるのだという。そしてもちろん収量を抑え、葡萄を良く熟させること
葡萄の選別をしっかりすることが何よりも大切なのだという。
もっとも、長期保存という観点より、2年前からまた甘口の需要も高まって来ているそうである。
地下のケラーに案内してもらう。クリュッセラート家自慢の見事な木樽たち(↑)。
モーゼルでは伝統的な1000リットル入りの木樽はフーダー(Fuder)と呼ばれ、1樽なんと2500ユーロ也!
この醸造所ではワイン造りはすべて木樽で行われている。木樽で造られたワインは酸がまろやかになるという。
樽の管理に薬品は一切使わず、洗浄は熱湯もしくは水で成される。ケラーの床の洗浄にも薬品は使用しない
という徹底ぶり。収穫時期を前にした現在、樽の中はレモン水で満たされているのだそうな。
出来上がったワインを移し替えて保管するステンレス製タンク(↑)。
ここでは完全に空気から遮断され、ワインは酸化から守られるという。
彼の日常ワインはもちろんリースリング。たいていは夕食とともに辛口や半辛口のワインを飲み、気分によっては
甘口のシュペートレーゼを愉しむこともある。エレガントな甘口なら1本でも軽々空けるという。
醸造家になりたかったのかという問いには、兄弟は5人いたが父親は何も訊かずに彼に跡を継がせたそうで
彼にはまったく選択の自由はなかったらしい。もちろん嫌々継いだのではないことはその表情から明らかである。
そして娘さんも自ら進んでガイゼンハイムに行き醸造家になったという。先ごろお孫さんが生まれて4週間だとも。
現在はラインヘッセンのヴェストホーフェンに居て、週に2日こちらに帰って来るそうである。ちなみにこの娘さん、
なんでもそれまでの彼氏を捨てて醸造大学で知り合ったヴィットマン醸造所の息子と結婚したのだという。
そう言って彼は大きな声で笑った。そんな事まで言ってしまって良いのか?(*^▽^*)
それにしても期待を裏切らない見事なワインたちであった。話は前後するが前日居酒屋で飲んだり、この後
宿泊先の醸造所で試飲、あるいはレストランで夕食とともに飲むことになる別の醸造所のものとは一枚も二枚も
役者が違った。一貫してミネラリッシュで複雑、しかもまるで水晶の如き透明感。そして試飲だけでは判らないが
恐らく時間をかけてじっくりと飲めば、グラスの中でその千変万化する様が愉しめるに違いない。こうして実際に
造り手と触れ合ってその声を聞き、また醸造所や黒カビに覆われたケラーの空気を吸ったからには、きっと毎回
ボトルを開ける度に飲み手をこの場に誘ってくれるに相違ない。
辛口もさることながら、最後に試した3つの畑の甘口飲み比べも実に興味深かった。ゴルトトレプフェンは
その土壌の重さゆえに甘口造りに適した地所であり、一方アポテーケは軽い土壌でミネラリッシュなため
辛口に仕立てた時その真価をより発揮するのではなかろうか。またドーロン・ホーフベルガーの土壌は
トリッテンハイムと変わらないとのことであったが、やや中身に乏しいのでこれまた甘口に向いた土壌なのでは
なかろうか、などと勝手な解釈をしてしまった。いずれにしても最近辛口ばかりを飲んでいるせいか、甘口を
飲んでもその土壌の多様性がある程度以前よりも明確に利き分けられるようになっているのには驚いた。
気に入ったワインを注文してから醸造所を辞すると、既に3時間近くが過ぎていた。外があまりにも良い天気
だったので、このあと我々は撮影がてらトリッテンハイマー・アポテーケの葡萄畑を散歩することにした。
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