仏教心理学1 全ての苦しみの根源=「無智」とは | 上祐史浩

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   仏教心理学1 全ての苦しみの根源=「無智」とは
 
 
 今回から、仏教の中の心理学のお話しをします。その心理学の根本として、すべての苦しみの源として「無智」があるとします。

 これは、物事を正しく見ることができない心の状態です。特に、幸福になるための正しい道が分からない状態です。
 
 ここからは、巷の仏教書には書いていないことですが、分かりやすく言えば、「今の自分さえよければよい」という考え方です。つまり、「目先の楽」にとらわれ、その裏の長期的な苦しみを見ない(分からない)状態です。
 
 例えば、批判を過剰に嫌がる人は、「今の自分を守ろうとする偏狭の自己愛」にとわれています。すなわち、批判を受け入れ、地道な自己改善の努力をすることを嫌がる「怠惰」があるのです。
  
 こうした傾向が強い人の場合、何かの問題が起こった時に、本質的には、自分の努力の不足が原因なのに、問題を他人のせいにします。無理な言い訳、無理な責任転嫁をし、他人の指摘を受け入れず、猛然と否定・反発します。
  
 しかし、相手に論理的に追い詰められて、これ以上は否定できないと思うと、今度は「皆も同じ問題がある」と主張します。そして、自分の問題を認めざるを得なくなると、「もうわかりました、しつこいです」などと言います。

 こうして、なかなか本当の反省・改善しようしません。また、時には、話を突然変えて、他を批判できる別の話を始めたりします。そして、しばらくすると、全く元に戻って、指摘した問題点は忘れてしまっています。
 
  
 一方、他の責任するのではなく、卑屈を装う場合があります。すなわち、自分の努力不足が問題ではなく、努力しようとしまいと、自分はできないのだがという卑屈を装うのです。
 
 本質的には、できないのではなく、出来るようになるまでの地道な努力はしたくないということです。

 しかし、できないと主張することで、努力していない自分を見ることを避けようとします。また、他人から努力不足を指摘されることを避けようとします。
  
  
 さて、問題は、本人自身が、これを自覚せずに、本当に自分はできないと思っている場合が多いことです。また、他人のせいにする場合も、本当に他人のせいだと思っている場合も多いと思います。
 
 責任転嫁や卑屈が習慣になっており、他人から見ると被害妄想的な性格(責任転嫁が多い場合)であったり、常に卑屈であったりします。
 
 その背景には、自分の問題を認めたくない、今の自分を守りたいという強烈な自己愛があります。それで、自分の考え方を歪めてしまっているのです(私はこのことをセルフマインドコントロールと呼んでいます)。
  
  
 さて、この傾向を直すにはどうしたらよいかですが、率直に言って、それほど容易ではないことが多いと思います。
  
 まず、他人ではなく、自分自身のこうした問題については、これまでお話ししたことに基づいて、よく内省してみることが、第一歩になることは間違いありません。
 
 ただ、気づいたしても、この強烈な自己愛を本格的に解消できるのは、自分の心身や人間関係で大きな苦しみが生じて行き詰っている時だと思います。自分を修正することなくしては、どうにもならないという場合です。
 
 その意味で、苦しみは、その人の脱皮と、それよる新たな喜びに繋がる面があります(そのため、仏教では、苦楽表裏。苦の裏に楽があるとも言います)。
 
 
 次に、他人についても、その人が行き詰って、打開策を求めている場合は、これまでのお話をすれば、変わり始めることが多いと思います。一方、まだ行き詰り切っていない場合は、反発を受けると思います。

 反発を受ける場合は、いましばらく見守ってあげて、時期が来るのを待つということになるかと思います。

 ただし、その人と縁があり、あなた側に忍耐する気持ちがあれば、反発を受けつつも、繰り返し説得し続けるパターンも可能でしょうが、それは数年に及ぶ作業になるかもしれません。