宗教と宗教を超える道 第6回 信じるとは何か、信じる理由は何か | 上祐史浩

上祐史浩

オフィシャルブログ ―― 21世紀の思想の創造


          宗教と宗教を超える道 第6回

         信じるとは何か、信じる理由とは何か


 昨日、幼児期にキリスト教の洗礼を受けた作家・ジャーナリストの方との公開対談がありました。それを通して、オウム真理教を含めた、これまでの宗教の問題をいくらか確認できたと思います。

 まず、宗教は「信じる」ということが基本です。この「信じる」いう行為は、いったいどういう意味でしょうか。

 まず、「信じている」ということと、「知っている」ということの違いから考えてみましょう。人は、(自分の信仰・神・宗教が)「真理だと信じている」と言います。そして、「私は何が真実かを知っている」とも言います。

 こうして、「信じている」とは、皆が共有できる客観的な証明ができない事柄、たとえば、神の存在などについて使われるものです。信じるという漢字が、人の言葉と書くように、宗教の教義は、人が語る言葉ではあっても、事実かはどうかは、客観的にはわからないものです。

 しかし、宗教の信者は、多くの場合、これに明確に気づいていないと思います。

 なぜなら、信者は、その教義を「真理」として「信じている」からです。真理とは、単なる真実や事実以上の重要性を(信者の意識の中では)持っています。

 そのために、客観的には、教義が正しいと「知っている」のではないのに、信者は、あたかも、その教義を事実・真実以上のものとして、知っているかのように、錯覚している状態になるように思います。


 では、客観的な根拠がないのに、人はなぜ宗教を信じるのか。この答えは、ある意味では、難しく、ある意味では簡単です。

 というのは、宗教以外の場合でも、客観的な根拠がなくても、何かを信じる場合が人には、よくあることから推察すればいいのです。

 たとえば、男女関係で、「私は彼(彼女)が浮気をしないと信じている」という場合がありますね笑。

 そうです。それは、何かしらの理由で、強くそうであると「信じたいから、信じている」ということだと思います。

 信じたいから信じている。

 しかし、問題は、宗教の信者は、自分では自覚していないことではないでしょうか。信者は、正しいから信じている、真理だから信じていると思い込んでいる場合が多いと思います。

 本当は、自分が正しいと思いたいから、真理だと思いたいから信じている。これは、私のオウムでの経験や、その後の探求を合わせた結論です。

 私は、自分が神でない以上、麻原を含めた他人が神かは分からないと考え、これが、麻原信仰をやめた一つの理由となりました。

 その意味で、盲信的な信者は、自分は神ではなく、他者を神だと判断できる能力などないにもかかわらず、自分では気づかないうちに、あたかもその判断能力があると思い込んでしまっている状態かもしれません。

 すると、気づかないうちに、どこかで謙虚さを見失っているとも表現できるのではないでしょうか。

 しかし、信者自身は、自分は謙虚であるように努めていると感じる人が少なからずいると思います。というのは、信者は、神や教祖などを意識して、それら対して常に謙虚であるように努力している人が多いからです。

 しかし、外部社会からは、信者は、自分たちこそが正しいと思い込んだ傲慢な人に見えてしまう場合が少ないと思います。


 しかし、ここで逆の問題もあるように思います。

 それは、こうした盲信的な信者たちをひどく嫌って、「神などいない」など断定して、宗教を鼻から批判する人です。

 この場合、よく考えみると、逆の意味で、謙虚さがないのではないでしょうか。

 そもそも、人間に、神がいるか、神がいないなどは、分かるわけがないからです。分かるとしたら神だけでしょう。

 論理的に説明すれば、神は、宇宙を創造し、統治する絶対者であり、人が神を信じるように操ることも、信じないように操ることもできる存在です。その意味で、神とは、人間が、その存在を証明も、反証もできない概念であることは明らかです。

 だとすれば、なぜ「神などいない」と断定するのか。それは、信じる場合と同じでしょう。すなわち、「信じたくないから信じない」にすぎません。

 その意味では、単純に、「宗教は嫌いだ」という人の方が、「神などいない」「宗教は皆でたらめだ」という人よりも率直な人だと思います。

 「神などいない」という人は、神を信じたくないだけなのに、「神などいないから信じないのは正当だ」と言いたい(言わざるを得ない)という背景心理があるかもしれません。その背景には、例えば、コンプレックスがあるかもしれません。

 そして、面白いことに、「自分は宗教は信じない」と言っていた人が、何かを自分で体験して、それが自分プライドを満たすものだと、とたんに「俺は真理に出会ったんだよ!」と言って、一転して盲信を始める場合もあります。


 さすがに宗教は盲信しなくても、そういうタイプの人は、思い込みが強いですから、宗教以外のものに関して、安直に信じることが多いように思います。

 オウムの場合も、信者は、(教祖・教団に)謙虚になろうと努めていたのですが、客観的には傲慢そのものでした。

 しかし、そのオウムの全盛期は、同時に、日本社会がバブルの全盛期でした。「株価も土地も上がる一方で下落することはない。21世紀は日本の時代、アメリカを超える」と、エリートを含めた日本全体が、後から考えると合理的でない未来を盲信したのでした。

 これも、結局は、そう信じたかったから、つまり、お金がどんどん増えると強く信じたかったから、ということでしょう。どんどん株価・土地が上がり、自分のお金がどんどん増えるのを数年の間だけ見ただけで、これからもずっと上がるだろうと信じてしまったのです。

 その結果は、大変な経済的な損失、膨大な倒産と失業者、そして、毎年、数千人単位の自殺者の増大でした。大変な経済的、人的被害でした。

 
 こうして見ると、神の存在を断定して盲信する人と、神の存在を断定的に否定する人は、お互いに対して強く反発しますが、両者が気づかないうちに、慢心という共通の欠点をか抱えているのではないでしょうか。

 それは、広い意味での近親憎悪かもしれません。

 そして、そのさらに裏側には卑屈・コンプレックスが隠されているかもしれません。

 前に、心理学の理論に元ついて、お話したように、卑屈・コンプレックスの強い人が、それを歪んだ形で解決するパターンとして、

1.自分が他人よりも優れていると思うことができる世界観に依存する
  (たとえば排他的な宗教や政治思想)

2.他人を強く批判して貶めることで、優越感を感じるようにする

 といった心理現象があるそうです。優等コンプレックスなどと言います。

 こうして、

1.単に宗教を毛嫌いすることではなく、

2.宗教の「信じる」ということの本質をよく考え、

3.それが宗教以外の社会の部分にもあることに気づく

 ということが、本当に意味で、宗教を超える第一歩になるのではないでしょうか。

 この第一歩が踏み出せたならば、あとは、「信じたいから信じている」という状況を変えることが第二歩目になりますね。

 すなわち、それは、信じたい理由を探し、その理由を取り除き、信じなくても済む状態を作ることだと思います。