そして、最大の衝撃に私は襲われた。
標本は日本人ではなく、全て中国から輸入されたもの
だったのだ。本当に遺志は確認されたのか。
大熊猫を殺すと人間が死刑になるという国で。
月例別胎児をまるごと標本にして、
複数展示することに何の意味があるのか。
生命の尊さ?一見異常無き胎児遺体を、
成長時期ごとに合意を得つつ標本にするのは気の
遠くなるほどの年月と熱意が必要だっただろう。
もし本当に合意を得て行ったのであれば誠に偉業
かもしれぬ。しかし、胎児の成長過程写真は現在の
マイクロスコープ技術で生きたものを順を追って
撮ることが出来るのであり、今回のように小さな遺体
を累々と並べることには反感を持たざるを得なかった。
 
ラストの衝撃は、足早に会場を去る私の目に映って
しまった「グッズ売り場」だ。ウェブサイトには
CDロムと図録しか無いような印象を持たせるのにも
かかわらず、死体絵葉書、死体Quoカード、
内臓ボールペン
…と眉をしかめる商魂たくましき
悪趣味グッズが売られているのだ。
これは、勉強の名を借りた現代の見世物小屋なのか?
かつての衛生博覧会の方が、蝋細工の分
無邪気だったのではないか。
 
そしてまたまた私をゲンナリさせたのが、宙づりにされて
様々なポーズで踊る、骨格標本と呼ぶのもはばかられる白骨たち
 
「触れる」脳と死体標本のコーナーには長蛇の列が出来ていた。
私はハナから並ばなかった。見学者が多すぎるのか警備員が
足りないのか、触れる標本ではない「触らないでください」
標本にも触りまくる見学者たちを見て辟易していたし、
「触れる」標本の小腸部分は遠目にも触られすぎて
破れているのが見てとれたからだ。興味よりもそれらは、
私にただ悲しみしか引き起こさなかった。
 
確かに勉強にはなるだろう。ふつうの人の勉強には。
しかし、あの巫山戯たかのような剖出はいったい誰が、
なぜかくのごとく行ったのか。見に来ていた(おそらく)
一般の若き女性の一言が、この展示の本質を奇しくも言い表していた。
「どうしてみんな、顔こんなにしちゃうんだろうね。
 ふつうでもいいのに。」
 
気まぐれのように歯肉を一部だけ切除してみたり、
乳房を剃り落としてみたり、悪夢の前衛芸術のように
アシンメトリーな切断をそこここに加えてみたり…。
 
50体もの遺体をもって、意図不明な剖出デザインを行った
本展示は、私の心に苦い記憶となって焼き付いたのであった。




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