実際に展示場へ入ってしまってから、私は自分の
認識の甘さを知ることになる。
 
確かに、この展示によってからだの仕組みを勉強する
ことが出来るだろう。本物の死体であるという衝撃が、
得た知識をより印象づけて記憶させるであろうし、
かつて生きていた人が標本となり、自分もいつか
このように生命を失う存在であるという内省
促すことにより、敬虔な気持ちを持って学ぶ気が起こるだろう。

死体を身近に展示することは、布施氏の言うところの
「健康的な死体概念」(隠蔽される忌むべきものと
しての屍体、と相反する概念)を市井の人に持っていただく、
というメリットをも有していることだろう。
 
そうやって精一杯に弁護してみても、私はありあまる不快感を
消すことが出来なかったのである。
その理由はまずひとつに、展示の不明瞭性であろう。
解説と称して某大学から解剖学の教授がやって来ることは
あるらしい。だが、これを企画した団体は、名前こそ
記されているが、いったいどういう組織なのだろう。
企画立案者と解剖の実行者は誰なのか、その「貌(かお)」
というものが見えて来ない展示なのである。
 
また、標本展示の不可解さ。
医学者であっても、MRIやCTでしか普段見ることの出来ぬ
部分の標本には非常に興味がある。正中断や矢状断、
関節包内部等の死体標本を見ることは、画像診断時の
イメージングにさぞかし役立つことと推察する。
なのに、第何脊柱レベルでの横断・縦断標本は
びっしり人型のまま並べられているだけ。
人間一体を様々な方向からキャベツの千切りのごとく
刻んだ標本は確かにインパクトがあろう。だが、X線図と
呼応させることもなくびっしり、しかも断面図もロクに見せぬよう
並べていては、勉強にならない。
驚きはするが展示の意義がよくわからない。
「ほらほらすごいでしょ、人間千切りですよ」
と言うつもりでもあるまいに。
 
筋肉の仕組みという題だったか、標本が弓を引くポーズなのも
何故か。屈筋、伸筋のはたらきを効果的に見せるなら他の
ポーズがありそうなものだが。ふだん弓を引くなんて動作を
どれだけの人がするというのか。特殊武道ではなく、リアルに
イメージ出来る動作をさせるべきではなかったか。
 
血管標本の多くが崩れて落下し、各部がただの粉になりはてて
おり、どういう管理をしているのだか疑問に思う。
血管は極細・繊細だから標本が壊れやすいとは思う。
だが、まるで終わりがけの菓子のように、触られもせず
置いてあるだけであれほどボロボロになるとは驚きであった。
 
内臓や血管の標本では、見せたい部分以外の身体各部
(首、四肢など)を大胆に切り離してあり、
切断面を黒い布で覆っていた。神経質な私は、その黒い布
で包まれた、不可視の領域がどのような処置をされているのか
想像すると無闇に恐ろしかった。
 
気になったのが、意味不明なポーズを取らされている標本。
確かに、展示場の壁にもプリントされていた中世の解剖画は、
芸術的なポーズを取っていた。だがそれは、絵画表現上の問題で
そのような古典的彫刻のごときポーズをしていたのであって、
この現代にそのようなポーズを遺体標本に導入する理由がまるで
見いだせない。復古主義のつもりか、制作者…ではなく剖出者の
趣味なのだろうか。

シマウマのごとく皮と皮下組織をボーダー状に遺されたり
えぐられたりした死体。
内臓を中空にとどめて、真っ二つに割られた死体。
これらのポーズの意図はどこにあるのか考えるとき、かつて水銀静注
した死体を絵の具で塗りたくり、同じように処置した馬に乗せて
芸術であるとうそぶいたフラゴナールの従兄弟のごとき傲慢さを
嗅ぎ取ってしまうのは私の妄想か。



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