城野遺跡/帰ってきた弥生人 特報2

“吉野ヶ里遺跡石棺墓調査への疑問と期待”

 

6月に日本中を騒がせた吉野ヶ里遺跡の箱式石棺墓調査に関し、私自身多数の疑問点や今後の調査で期待する点があるため、特報2としてブログにアップすることにしました。

 

まず、この墓をめぐってどうしても邪馬台国や卑弥呼との関係を求めたい報道関係者のステレオタイプの質問にはうんざり気味で、調査関係者もよく切れずに丁寧な応対をしているなあ、と感心しました。

 

加えて山口祥義佐賀県知事の再三の記者会見にも違和感を覚えざるを得ませんでした。知事が過去の吉野ヶ里遺跡の全貌や今回の発掘調査の経過・内容を熟知しておられるのかどうかわかりませんが、スライドを使用して詳しい説明や今後の展望と期待感、また調査の進め方などを説明されていましたね。あのスライドは知事自らが作成し解説文を加えているのでしょうか。とてもそうとは思えない詳しい画面構成でした【写真1】。佐賀県の歴史と文化を全国にPRし、地域活性化につなげる格好の材料と思われたかもしれませんが、出演は最初の挨拶くらいにして、文化財担当課の職員にバトンタッチする度量と品格が欲しかったと思っています。

 

【写真1】 山口佐賀県知事による記者会見(5月29日)

石棺墓の蓋を開ける前に行われた。過去の調査画像がたくさん紹介されており、文化財担当の職員が作成したと思われる。後半の記者からの質問部分では、調査関係者が脇から回答していたが、その姿はほとんど映っていなかった。

 

 

さて、最初に戻りますが、マスコミ関係者へのレクチャーや事前の投げ込みなどはよく役所の広報がやる手ですが、時々刻々の発掘調査の経過説明や、その日の発掘成果についての記者発表は、現場サイドとしては非常に負担であり、発掘調査にも支障をきたします。さらに市民への石棺墓の公開は、それよりも3週間近く後回しにされ、石棺内部が掘り上がった後にだけ行うというのは、いかがなものでしょうか?

 

一番大切にしたい地元住民、市県民にテレビや新聞でのみ固唾を呑ませたうえ、お預けを喰らわせることは、税金を納めている身からすれば納得がいきません。私は北九州市民ですが、自分が現役時代にいやというほど市の似たようなマスコミ対応方針に従わざるを得なかったため、佐賀県民が気の毒な気がしてならないのです。

 

ただ現地の調査中公開には、作業工程の調整や公開準備、資料作成、現場の安全管理など、様々な業務が伴うことはわかっていますが、マスコミ優遇の風潮が先に述べたような無理強いの回答を求められる事態につながっているのではないかと危惧しているのです。

 

本論にもどりましょう。前回の特報1(6月9日アップ)で私は、蓋石が開けられた直後に、これらは一枚の同一石材であり遺跡内に持ち込まれた後に「×」などの線刻が施され、その後に3枚に割られたものだという見解を示していました。佐賀県がそれを発表したのは6月24、25日の一般公開が終わった後一週間ほど経ってからだと思います。

 

さらに、一枚の蓋石【写真2の石蓋1】に線刻がないのは本来こちらが蓋の内面になる面だったのを、割り方の失敗によって外面にせざるを得なかったためと想定しましたが、これについても嬉しいことに当たってしまいました。これは各蓋石に刻まれた線刻が石の端まで伸びていること、小さな破片にまで線刻が見られることを根拠としたためですが、佐賀県の今までの発表の中で、その破片が蓋石のどこの部分と接合するかについては明らかにしていません。ただ【写真3】のような接合関係は公表しています。

 

【写真2】 石棺墓の蓋石(はずす前)

2枚の蓋石には「×」印などの線刻が多数みられるのに対し、一番右の蓋石(石蓋1)には線刻が確認できなかった。結局裏面(内側)に同様な線刻が多数施されていた。

 

【写真3】 接合した3つの石蓋

最初に想定したように3つの蓋石は接合したため、様々なことがわかってきた。これ以外にも割れて飛び散った石片がたくさんあったようだ。

 

 

この写真をみると、石蓋1の左側にも本来大きな破片があって、その割れ口の形状からは、思った通りにうまく割れずバラバラになってしまった、と想定ができます。また石蓋2の左側、石蓋2と3の隙間にも本来破片があったはずです。そしてどれもがその割れ方(剥離面といいます)からすると、線刻のない裏側から打撃を加えて割っていることもわかるのです。

 

佐賀県には、残りの破片をもっと綿密に検討し接合関係がないかどうか探ってほしいのと、石棺墓周囲で見つかった石材、石塊にそうした破片がないかどうかを捜してほしいと思います。

 

なお、7月4日のNHKテレビ番組「クローズアップ現代」では、吉野ヶ里遺跡の石棺墓を題材に、考古学や天文学の専門家に様々な分析をしてもらい見解を聴いていました。その中である専門家はこの「×」印の線刻を星に見立て、天の川を挟んで彦星(アルタイル)と織姫(ベガ)が描く「夏の大三角形」を含む夏の星座を表しているのではないかとの説を提示されていました【写真4】。とてもロマンのある魅力的な説なのですが、その見解は石蓋2、3が接合することが判明した直後に検討されたものであり、後で接合した3つをまとめて線刻の配置状況を見るとまた違った解釈もできるのではないかと思います。

 

【写真4】 夏の夜空を表現したとされる蓋石の線刻

専門家は、写真の赤丸を特定の星座としてとらえ、夏の夜空を表現しているとの見解を示しているが…。

 

私は、これらの「×」やその他の線刻は大きな一枚ものの石を地面に置き、この場所で多くのムラびと達によって、寄せ書き風に自由に石鋸で刻まれ、その後石をひっくり返してハンマーのようなもので打撃を加え割った後、割り損ねて飛び散った破片を集め、石蓋3の先や側面、また石蓋1と石蓋2の間の隙間に詰め込んだのではないかと思っています。

 

天の川を表現した「暗黒帯」も見えるとのことですが、星座を描いたのち彦星と織姫伝説を否定するかのように打ち割る行為が何を意味するのか、また裏返して割れば、どこで割れるかわからないリスクも背負った行為をあえて行う意味が何なのか、さらに検討が必要な気がします。

 

「クローズアップ現代」に出演した別の専門家は「線刻は寄ってたかって描いている。封じ込めたいためか?」と述べています。私も前半は同感ですが、格子目図形【写真5】や長い直線が描かれたりもしており、まさにアットランダムな仕上がりとしかいいようがありません。魂を封じ込めるなら、もっと象徴的な図柄が線刻に表現されてもいいのではないでしょうか。

 

【写真5】 格子目図形が描かれた石蓋2

この図形はどうみても夜空の星座とは関係ないように思う。むしろ絵画土器に施される文様に似ている。

 

 

特に、線刻発見当初、頭部側の一枚の石蓋1には外面に線刻がなく、内面にのみあるため、特別な意味を持たせたような報道がなされていたと思いますが、私が想定する線刻の描き方であれば、この石蓋だけ裏返す意味はもっと別のところにあるわけです。これも前回述べましたが、たとえば、石棺が長さ180㎝あるので、割れ方の失敗からこの一枚だけひっくり返して置いて、足りない箇所は破片で塞ぐほうがしっくりくると考えたかもしれないし、もともと石の置き方にそんなにこだわりはなかったかもしれない。

 

私が城野遺跡の2基の石棺で思うのは、方形周溝の中央に墓坑を置けばいいのに、やや北にずれた位置に置き、主軸も斜めにずれていました【写真6】。また石棺同士も寄り添ってはいるが並行には設置していません【写真7】。石棺のうち北棺は、作業中に蓋石が割れたにも関わらず、目貼り粘土で補修してそのまま使用しているのです【写真8】。かなりアバウトな感じでした。まだまだ弥生人の発想や思考は多種多様で我々には考え及ばないということではないでしょうか。

 

【写真6】 城野遺跡の方形周溝墓全景

コの字状の溝に囲われた中の墓坑は、中央よりやや北(左側)にずれ、墓坑自体も斜めに築かれているのがわかる。

 

【写真7】 二つ並んだ城野遺跡箱式石棺墓

写真左の南棺と右の北棺は、切り合いがあり北棺が新しいが、寄り添わせる意識がありながらも、並行に築いてはいない。

 

【写真8】 城野遺跡石棺墓北棺の蓋石

2枚のうち足元側(右)の1枚は、作業途中で割れたにもかかわらずそのまま蓋をして、割れ口を白色粘土でふさいでいる。この粘土の中には鉄製釶の一部が埋め込まれていた。

 

 

次に赤色顔料についてですが、報道ではしきりに赤色顔料が塗られている墓があたかも有力者の墓、特別な地位にある人の墓、はたまた卑弥呼の墓みたいなイメージをもたせる内容でしたが、北九州市高津尾遺跡の場合は合計百数十基の箱式石棺墓、石蓋土坑墓、土坑墓のうち約半数から赤色顔料が検出されているのです。また赤色顔料は、床面や蓋石の内面にはベンガラ(酸化第二鉄 Fe203)、遺体には高価な水銀朱(辰砂 HgS)と使い分けがなされる場合が多いのですが、城野遺跡の2基の石棺はベンガラを一切使わず水銀朱のみを棺内に大量に流し込み、蓋石や側石にもまんべんなく塗り込んでいるのです【写真9、10】。その量は両方合わせておそらく70kgはあったと試算しています。

 

【写真9】 城野遺跡石棺墓の蓋石内面(手前が南棺、奥が北棺のもの)

いずれも内面全体に水銀朱が塗られており、吉野ヶ里遺跡石棺墓の蓋石とは朱の塗り方が異なっている。幼児の墓にこれだけの朱を使った例は管見にない。

 

【写真10】 城野遺跡石棺墓南棺の内部

頭骨と歯が残る幼児の石棺墓(南棺)は、側石と床面全体に水銀朱が塗られたり撒かれたりしており、部分的に厚さ3㎝にもおよんでいる。側石の水銀朱は年月の経過により、かなり剥落している。木口石の内面には方相氏の絵画文様が描かれていた。

 

 

今回の吉野ヶ里石棺墓は、蓋石を外した段階に確認できたのは【写真11】のように白色粘土の上に雫状に点々とみられる状態でした。これは蓋石の内面に塗った赤色顔料が白色粘土にくっついたことを示していますし、この状態から、蓋石内面の赤色顔料はまんべんなく塗られているわけではないということになります。木口石(こぐちいし)や他の側石、また床面にも赤い痕跡があったということですが、その量は決して多くはないのです。ですので、赤色顔料が塗られているから有力者の墓であるとか、その地域の首長、王ということにはならないのです。前記した番組に出演した専門家の一人も同じようなことを述べていました。

 

【写真11】 蓋石除去後に確認された赤色顔料

よく見ると、赤い部分が楕円形状に点々とみられる。蓋石の裏全面に塗られていたなら、このような付き方はしないと考えられる。

 

 

もうひとつ、今回の調査で違和感を覚えたのは、一般公開した際の石棺内部の画像をみると、床面には部分的に粘土(黒色?)が掘り残され積もっており【写真12】、やや凸凹していました。深さも見た感じは一様ではなく、写真13を見る限り20㎝ほどしかないように見えます。報道では深さ27㎝とありますが、そんなにない箇所もあるようです。そこで、この石棺墓の床面が本当にこれで正解なのか、ひょっとしたらもう少し掘れるのではないか、という懸念が私に生じました。

 

【写真12】 石棺の木口石下に積もった黒い粘土

石の面に沿う形で積もっているため、この部分はまだ床面が出ていない。追加調査時にはこの土をはずし、木口石との境を確認する必要がある。

 

【写真13】 赤白ピンポールと石棺墓の深さ

担当者が持っているピンポールは赤白の間隔が10㎝。垂直に立てると、20㎝ほどにしかならない。この深さでは床面に到達していないと思われる。

 

 

なぜなら城野遺跡の例ですが、床面には真っ赤な水銀朱が2~3㎝の厚さで敷かれており、いわゆる屍床(ししょう)を形成していますが、その下はいきなり地山ではなく、土を20㎝ほど盛って整えていたのです。おそらく石棺墓を作るのに、やや掘りすぎ気味に掘って、後に埋め戻すことで床面の高さ、石棺の深さを調整しているのでしょう。

 

したがって、今回の場合も、本当に床面がこれで正しいのか、埋めた土は存在しないのかを確認すべきだと思うのです。そのためには床面に一か所でも、直交する二か所がベストですが、細いサブトレンチを入れるべきだと思います。また積もった黒粘土の中にもなにか遺物が隠れているかもしれません。城野遺跡の北棺では白色粘土の中に鉄製の釶(やりがんな)の破片を忍ばせていました。割れた石蓋の隙間から悪霊が入ってくるのを防ぐためだと考えています。

 

こうした追加の確認作業は、また9月から調査が再開されると聞いているので、是非ともやっていただきたいと思います。

 

最後に、この石棺墓の幅が36㎝しかないので、男性は無理だろう、したがって被葬者は女性だろう、といわれていますが、はたしてそうでしょうか。肩の関節を外せば

男性でも悠々納まるサイズだと思います。江戸時代のお墓を掘っても、窮屈そうに桶棺の中に入れられている人骨を良く目にします。納棺時に関節をはずす儀礼というか習俗は意外と古くからあるのではないか、ということも考えておいたほうがいいのではないでしょうか。

 

以上、私が今回の発掘で感じたことを長々と述べてきました。とにかく吉野ヶ里遺跡は日本でもピカイチの遺跡で、邪馬台国の所在地論争を繰り広げる前に、考えるべきことが無限にある重要な遺跡であることは間違いありません。今後とも、調査の行方を見守っていきたいと思います。(2023年8月3日寄稿)

 

*佐賀県が示した石棺墓の蓋石は、写真3にみるように「石蓋」と表記しているため、本文ではその解説部分には「石蓋」を使い、それ以外の箇所は「蓋石」と表記しています。

*写真は新聞・テレビ各社が報道したものを使っています。

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)

この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)

城野遺跡を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像がわかるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

 https://youtu.be/QxvY4FBnXq0

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

ttp://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②2020/8/10 ③2020/8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30 

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16

       ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

       ⑥2/7 ⑦6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②9/6 ③10/28 ④12/13

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

      ☛①2023/1/31 ②5/6 ※特報1 6/9 ③7/5 ※特報2 (今回)

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※20日に1回程度のペースで連載予定です。内容や回数は変更することもあります。最近、掲載が遅くなり申し訳ありませんが、ご愛読のほどよろしくお願いします。