北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑭

“歴史の重みが台無しに…”

※くらしと福祉 北九州」2021年12月1日号より転載(平和とくらしを守る北九州市民の会発行

 

小倉城内の発掘調査を通して、「ここがまさに小倉城だ!」と感じさせてくれる遺物に家紋瓦がある。江戸時代の小倉城主細川氏、次の城主小笠原氏の家紋はそれぞれ「九曜紋(くようもん)」、「三階菱紋(さんがいびしもん)」であるが、それらはたとえ小さく割れた破片でも、見つかれば特徴的な紋様なのですぐにそれとわかる【図1】

 

【図1】小倉城主、家臣の家紋

 

 

 

現在小倉城庭園がある場所【写真1】は江戸時代当初は細川藩主の第一の家臣松井興長(おきなが)が住む「侍屋敷」、そののち小笠原藩主忠真(ただざね)自身の別邸「御下屋敷(おしたやしき)」が築かれていた敷地であるが、北九州市はこの地に小笠原流武家作法の歴史を紹介する施設として、小笠原会館、書院、日本庭園を復元する事業計画を策定した。

 

【写真1】小倉城庭園の全景(西より)

 

 

当然、この地には江戸時代の遺構が眠っていることは絵図や古地図をみるまでもなく、樹木繁る敷地に築山(つきやま)をしつらえた和風庭園がそのまま残されていた。

 

調査は平成5年から数年かけて行われ、江戸時代の屋敷建物礎石跡や石組区画溝、門跡、井戸、かまど、埋甕、由緒ある寅ノ門(とらのもん)の礎石、また庭園部分では石組、階段、築山、中ノ島など、数多くの遺構が後世の破壊を受けながらも残されていた。

 

今回問題にしたいのは、発掘調査で「九曜紋」、「三階菱紋」の軒丸瓦(のきまるがわら)はいうに及ばず、松井家の家紋である「九枚笹紋(くまいざさもん)」の鬼瓦や江戸期以前の金箔瓦(きんぱくがわら)まで出土しているというのに、その成果を生かすこともなく、書院棟や武家屋敷再現建物の瓦に、ありもしない軒平瓦(のきひらがわら)を作り上げて屋根に載せていることである【図2】

 

【図2】発掘調査で出土した瓦(1~3)と現在の小倉城庭園書院の屋根に載る瓦(4)

軒丸瓦はよく見られる三巴文であるが、軒平瓦の紋様構成は日本中どこにもない。

 

 

【図2】の4の写真

 

 

小倉藩の城郭中枢部にある重要施設であるからこそ、城主の家紋瓦が何枚も出土しているのだが、おそらく発掘調査時点では、すでに復元建物に葺く瓦の紋様選定もなされていたのではないか。

 

それでも通常、歴史性を重視する自治体であれば、本物の遺構、遺物をもとに建設計画を練り直し、真の姿に近づける努力をすると思うのであるが、こと北九州市ではそうならないのである。

 

当時、この建設計画に携わっていた部署の職員に、どうしてこのような瓦復元になったのかを尋ねたことがあるが、彼は家紋を使用するには問題があった、というようなことを述べていた。確かに、家系や家柄を示す家紋には、現在もその後裔(こうえい)の方々が暮らしていることもあり、デリケートな問題が存在するかもしれない。

 

しかし埋蔵文化財は国民共有の財産であり、多大な経費をかけて発掘し見つかった遺物が、これから復元しようとする建物にとってどれだけ意味のある、またその価値を高めることになるかを考えれば、そうした問題も行政としては粘り強く解決することが必要だったのではないだろうか。ましてや、発掘調査が終わって小倉城庭園が開館するまで3年半の猶予があったのである。現に小倉城天守閣の屋根には昭和34年建設当時から三階菱紋軒丸瓦や鬼瓦が甍(いらか)を並べているではないか。

 

最初に述べたように、この地に江戸期の重要遺構や遺物が見つかることは想定内であり、瓦に限らず建物区画や石組溝の規模や方向、また庭園を特徴づけるさまざまな施設や造園装置にも、存分に参考に出来る遺構が実際に見つかっているのである。

 

発掘調査の成果をもとに、当初計画の見直しを関係部局に熱心に伝え理解をもとめる努力はなされたのだろうか。私たち埋蔵文化財担当者で分からないことは通常建築学、造園学、土木学の専門家に意見を仰いで指導を受けたり、他都市の復元整備例を参考にするものであるが、その形跡もなければ整備指導委員会のような専門委員会を立ち上げ、その所見を踏まえて開発部局との調整にあたったという話も聞かない。

 

小倉城庭園は、小倉城とともにその運営を指定管理者(民間企業による共同事業体)にまかせて展示や体験事業、祭りなどの諸行事を企画・実施しているが、市民や訪問者に小倉城の歴史や文化を正しくまた時間をかけて伝える施設であるにもかかわらず、北九州市直傭の学芸員が不在で、指定管理の期間も3年と短く、極めて不安定な運営といえる。

 

姫路城や安土城、彦根城、熊本城など日本の主要な城郭には公立の城郭資料館や考古博物館、調査研究センターなどが設置されており、日本でも有数の規模を誇る小倉城にもそうした社会教育施設ができないものであろうか。

 

そもそも小倉城庭園建設のコンセプトとして北九州市は、整備や復元の基本資料を確認するために広範囲に発掘調査をする、と謳っていながら。瓦ひとつの復元に対しても、首をかしげる事態になっていることは極めて遺憾であり、歴史を踏まえた文化財行政をしないと、その価値は半減してしまうことを再認識すべきである。(次号に続く)

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)

この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)

城野遺跡を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像がわかるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/QxvY4FBnXq0