城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第5章 遺跡保存への道のり① “残したいという心”

 

城野遺跡の発掘調査が終了して早12年が過ぎようとしています。私自身弥生時代後期の玉作りが行われた住居跡を発掘したのは初めての経験でしたが、その時のことは今でも鮮明に覚えています。

 

朝日に反射してキラキラと透明に光る水晶玉の破片と時々顔を出す鮮やかな緑色の碧玉のかけら、大地から聞こえてくるカチカチという音の響きと手に伝わる硬い感触、そして地を這うようにして発掘作業を行う人たちの真剣な姿………(写真1)。それが1800年前の玉作り工房であると判明した時の感動は言葉にできないほどのインパクトがありました。

 

(写真1) 玉作り工房の調査風景

小さな水晶の玉を探すには、地を這うような恰好で行わなければならない。

 

 

その前の年には、隣接した調査区で九州最大規模の方形周溝墓が見つかっていたのですが(写真2、3)、それは別の学芸員が調査を担当していたため、私はその様子を見守ることと、発掘記録ビデオを撮ることしかできませんでした。

 

(写真2) 巨大な方形周溝墓全景

24m×17mの溝のほぼ中央に、2基の箱式石棺がみつかった。

 

(写真3) 並んで見つかった箱式石棺

蓋石をはずすと中は真っ赤。水銀朱を惜しげもなく撒いているが、眠っていたのは幼児だった。

 

 

日々新たな発見があるなかで、もし自分だったらどういう調査の進め方ができるだろうか、と考えることはとても楽しく、大地から語りかけてくる弥生人のメッセージを聞き漏らしてはならない、とさえ思えるようになりました。だから、玉作り工房の発掘時(写真4)には、その時の頭の中のシミュレーションが役に立ったのだと思います。

 

(写真4) 玉作り工房の発掘風景

土器のかけらとともに、水晶や碧玉の玉素材が多数みつかった。竹串を刺しているのは、誤って踏まないための目印のため。

 

 

「弥生時代後期の終わりごろ、この城野遺跡では片や巨大なお墓が営まれ、片や2軒の工房で玉作りが行われている。その距離は100mほど隔たってはいるが同じ台地上にあり、その時に生きていた弥生人は、その両方を同時に見ることができたのかもしれない。」「城野遺跡に葬られた幼児の首に飾られた碧玉製の管玉は、この集落の玉作り工房で製作されたのではあるまいか。」「玉を作る石材はどこからどうやって手にいれたのだろうか?」「そのために城野遺跡の人々は何を対価として差し出したのだろうか?」とにかく考えなければならないことは無限にあるように感じられました。

 

そこで、自分ができることは限られているし、考える時間もないのならどうすればいいのか、少なくとも自分の手でこの遺跡、遺構を今壊してはならない、保存措置を何とか講じなければ、という思いに駆られたのです。

 

ただ、方形周溝墓の保存問題については、箱式石棺の蓋を開けた当初から、担当者をはじめ私たち城野遺跡の発掘調査に携わる学芸員から、「きわめて貴重で稀有な例であるから、早急に調査指導委員会を立ち上げてほしい。文化財保護審議会に諮ってほしい。遺構の現地保存交渉を開発側と始めてほしい。」という要望を上司にあげましたが、その明確な回答がないまま時が過ぎていきました。

 

あらかじめの調査期間が迫ってくる中、担当者は遺跡調査の進め方のみならず、自分たちにできる遺構保存措置について日々考えなくてはなりませんでした。

 

この遺跡の場合、中央にJR城野駅に向かう都市計画道路城野駅南口線の建設工事はすでに決まっていたため、その部分の遺跡保存は難しいことはよくわかっていました(図1)。しかし、方形周溝墓も玉作り工房もその路線からは外れており、さしあたり開発工事が予定されていない部分で見つかったため、土地の所有者である財務省福岡財務支局との協議次第ではなんとか保存できるのではないか、と考えていたのです。

 

(図1) 城野駅南口線(黄色部分)と方形周溝墓、玉作り工房の位置関係

両方の遺構は、当面開発予定のない場所でみつかった。その周囲も含めて保存しようと思えば出来たはずだ。

 

 

佐賀県吉野ヶ里遺跡、東名(ひがしみょう)遺跡、山口県綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡、大分県中津城など、いずれも保存困難な開発前提の計画があったにもかかわらず、遺跡が保存されてきた経緯があったからです。

 

なによりも、北九州市にもすぐ近くに隣接する重留遺跡で広形銅矛を埋納した竪穴住居跡が発見された際(写真5)、市は住宅用地として開発予定であった現地を保存し、小さいながらも重留遺跡公園を建設し整備・公開した実績があるのです。

 

(写真5) 広形銅矛を埋納した竪穴住居跡(重留遺跡)

四角い住居の壁寄りに、土坑を設け、その中に銅矛は埋められていた。日本でただ一つの事例で極めて貴重。住居は県指定史跡、広形銅矛は国指定重要文化財となっている。

 

 

ところが、北九州市の所管課である当時の文化財課(現文化企画課)は発掘担当者からの再三の要請にも耳を貸しませんでした。その間、遺跡の重要性をどのように認識していたのか、水面下で保存交渉をしていたのかは、私のような一塊のヒラ職員にはわかるはずもありません。

 

後ほど明らかになったところによると、文化財課が土地所有者の福岡財務支局との保存交渉に臨んだのは、すべての発掘調査が終了して半年以上が過ぎた2011年9月4日でした。ただその前には、我々調査担当者に対し、城野遺跡で見つかった遺構の全体図を作成せよ、遺構一覧表(表1)を作成して提出せよと指示があったりしたので、相手方とのなんらかの交渉に使うためなのだろうとは予測できたのです。

 

(表1) 作成した遺構一覧表

私が担当した地区でみつかった遺構の一覧表。黄色部分は玉作り工房の内容になる。

担当者はそれぞれこうした遺構一覧表を文化財課に提出させられたため、保存交渉のなんらかの動きがあるのではないかと察知した。

 

また、発掘調査も終盤になったころ、方形周溝墓部分に業者が入り箱式石棺2基を金属製パネルで蓋をし、砂で覆ってブルーシートをかける工事をしていたので(写真6、7)、内部ではいったん保存の動きがあったことも確かです。

 

(写真6) 金属製パネルで覆われた箱式石棺

長い間放置された箱式石棺は土坑の壁面がボロボロと崩壊し、石棺内部はカビが生えていた。

 

(写真7) 砂で完全に埋められた箱式石棺

金属製パネルの上を砂で覆った状態。このあとブルーシートをかけて土嚢を載せる作業が行われている。

 

しかしいずれも我々担当者と遺跡の重要性や保存の必要性について意見交換の場を設けるとか、所管課側の現在の考え方について説明することは最後までありませんでした。

 

文化財担当者なら、だれしも壊されていく遺跡を見るたびに胸が痛む思いを感じない人はいないと思いますが、開発行為で壊される前に高い経費をかけて発掘調査をしているのだから仕方ない、文化財保護法にも、「周知の遺跡内で開発行為を行う場合は事前に発掘調査を行うように………(文化財保護法第93条)」と謳っているのですから、これが免罪符と考えるしかありません。

 

それでも、巨大な方形周溝墓に葬られた二人の幼児、弥生のハイテク技術を生んだ玉作り工房のことを考えながら、私は何とかしてこれを残す手立てはないものかと考えるようになりました。(次回に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)

この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)

城野遺跡を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像がわかるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

 https://youtu.be/QxvY4FBnXq0

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

 

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②8/10 ③8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

        ⑥2022/2/7 ⑦2022/6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②2022/9/6 ③2022/10/28 ④2022/12/13

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

      ☛①2023/2/15(今回)

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

     行政判断の脆弱さを問う

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※20日に1回程度のペースで連載予定です。内容や回数は変更することもあります。最近、掲載が遅くなり申し訳ありませんが、ご愛読のほどよろしくお願いします。