北九州市の埋蔵文化財行政の是非を問う⑫

“金の使いみち”

 

わが北九州市には、かつて豊前の国を領国(りょうこく)とした大名たちによって築かれた小倉城が存在する。そう、小倉城郭は細川氏だけの城でもなければ小笠原氏が支配しただけの城でもない。その始まりも江戸時代をずっとさかのぼる戦国時代にはすでにこの地に築かれていた戦略拠点なのである。

 

明治時代以降も終戦を迎えるまで、軍事や大陸進出の拠点として当時の日本国の命運に大きな役割を果たしてきた歴史的遺産でもある。

 

これだけの歴史をまといながら、小倉城は日本でただ一つ、国にも県にも市にも文化財の指定を受けていない「孤高(ここう)の城」なのである。

 

だからといって、今も各所で残る小倉城郭の重厚な舞台装置である石垣、土塁、堀、そして周囲に広がる広大な小倉城下町を開発による虫食いだらけの都市にして良いはずはない。

 

小倉城大手門広場に2年半ほど前に開業した『城テラス』なる施設は、その背後に築かれた壮大な本丸石垣の景観を完全に隠してしまった。かつてはここで流鏑馬(やぶさめ)行事も行われた南北160mもある小倉城郭最大の空間=曲輪(くるわ)は江戸時代、非常時に大規模な軍勢の隊列を整える場でもあり、「大手の勢溜り(せいだまり)」と呼ばれていたエリアである。

 

しかもこの施設、建設の目的が海外とくに中国、韓国をはじめとするアジアの国々から観光客を招致するために発案されたもので、いわゆる「インバウンド」目当ての旅行・観光および散策後の休憩に供するためのものとされ、相次ぐ大型クルーズ船の博多、門司港入港ブームと相まって、市の中枢部にもそうした客を呼び込み、市の経済活性化の起爆剤に、とのもくろみがあったのであろうが、今はどうだろう。

 

いつまでも収束しないコロナの感染拡大は誰も予期せぬ事態とは言え、観光事業ばかりに目を向けて小倉城郭の歴史の重層性を顧みることもなく、地方創生担当大臣の「観光マインド」一辺倒の発言に踊らされた結果の、まさに負の遺産といえるのではないか。小倉城郭の発掘調査に数多く関わった人間としては完全にシビックプライドが傷ついた気持ちである。

 

読者の方々からは、小倉城といえばあのライトアップも美しい小倉城天守閣を忘れているのではないか、とのお叱りを受けそうであるが、お城で一番目立つ高層建築の小倉城天守閣が、当時の天守閣の姿とはかけ離れた形で復元されていることはご承知のことと思う(写真1)

 

■写真1 破風が美しい小倉城天守閣

 

日本では戦後復興のシンボルとして、昭和30年代に入り全国各地で天守閣復元ブームが訪れ、北九州市の小倉城も昭和34年に落成したのであるが、史実に基づいた姿に復元できなかった理由を、復元事業に携わった当時の学識経験者は報告書のなかで、「ほんとうは元の姿で復元したかったが、依頼者から、破風(大きな三角屋根)がなければ天守らしくない、是非破風をつけてもらいたい。あれがなければ観光客に訴える力がない、という理由で仕方なくつけた」とそのいきさつを述べている。

 

しかし、続けて「本当はないほうがよかった」と後悔の弁ともとれる言葉も残している。小倉城は何枚もの絵図が示す通り、シンプルな端正な天守閣だったのである(写真2)

 

■写真2 幕末期の絵図にみる小倉城天守閣

 

 

現代と当時とでは時代背景や行政組織、国民、市民意識の違いなどが全く異なっているが、問題は歴史を踏まえ正しく復元したいとの研究者の意向が、行政や財界の圧力の前では無力であることを如実に示しているのである。なんだか、コロナ対策をより重視するべく警鐘をならす感染症対策分科会の意見を、ただ手続き上聴きはするが方針は決して曲げない今の政府に似ていないだろうか。

 

市民の本物志向が根付いている現代では、このような結果には普通ならないはずだが、小倉城の改装費用含めて10億円もかけて建設された『城テラス』の場所が、この重要な曲輪であることを知った時、筆者は旧態然とした北九州市の文化財行政の貧困さと、それゆえに生じる他部局との調整能力不足を小倉城天守閣復元事業に置き換えてしまったのである。

 

もうひとつ、付け加えておくが、この『城テラス』の地下では、事前の発掘調査により江戸期以前の巨大な土堀(つちぼり)が発見され、織田信長・豊臣秀吉系列の城郭にだけ使用が許される金箔瓦まで出土しているのだ。今ある細川期の石垣以前に、それこそ城を守るため多大な労働力を領民(りょうみん)から搾取(さくしゅ)して防御施設を築いた城主毛利勝信(もうりかつのぶ)の戦国武将としての思いと、領民たちの苦難の歴史を感じることができた。

 

『城テラス』の建設により、壮大な石垣景観のみならず、そうした様々な歴史が詰まった文化遺産の構成要素をまたひとつ北九州市民は手放してしまったのである。(次号に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)

この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)

城野遺跡を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像がわかるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/QxvY4FBnXq0

 

 

※なお、この連載は平和とくらしを守る北九州市民の会が発行している「くらしと福祉 北九州」2021年10月1日号に掲載された記事です。転載をご快諾いただきありがとうございます。