横浜のみなとみらいホールまで、読響の演奏会を聴きに行ってきたのでありますよ。
いつもは東京芸術劇場@池袋のシリーズを聴いていて次の週末がその演奏会なのですが、
折悪しく土日の出張が入っておるものですから、振替制度を使って横浜へという次第です。
この制度は便利です…が、結構遠い感あるんですよね、横浜 …。
そんなことはともかくですけれど、この間「反音楽史
」を読んだだけに
音楽への接し方がいささか楽になったような気がするのですなあ。
ドイツ音楽は「形式」を突き詰めていくあまり、
聴き手を寄せ付けない(?)ところまで行ってしまう流れをたどりますけれど、
「音楽」とはそうした方向性ばかりではないわけで、「ああ、きれいだな」で何か悪いと。
基本的には単純に音楽の美しさに聴き惚れるのを楽しみとしながらも、
どこかしらドイツ音楽史観に照らして軽佻浮薄な曲と考えてしまうところがあったわけで、
そうしたところから解放された(とは、大げさですが)ような気もしているわけです。
クラシック音楽の曲の分け方に「交響曲」というのと「管弦楽曲」というのがありまして、
いずれにせよオーケストラによって演奏される曲なのですから「管弦楽曲」と思うところながら、
わざわざ「交響曲」という(比較的)形式を重んじる曲種を一本立ちさせているのが
まさにドイツの伝統上にのせられてもいるわけで、受け手の側も単なる「管弦楽曲」よりも
「交響曲」の方がありがたいように思い込んでしまっていたりするのですなあ。
さて、この度の読響の演奏会、メイン・プロはリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。
上の区分けで言えば「交響曲」でない「管弦楽曲」の典型と思しき曲でありますね。
で、これが実に楽しいのですなあ。
オーケストラという巨大な楽器の特性をフルに活かして、
次々と橋渡しされる音色の変化、厚くも薄めにもなるハーモニー、そしてダイナミクスの振幅、
どれをとってもこれぞオーケストラの楽しみと言えるものなんじゃあないかと思うわけでして。
ただ、千一夜物語がベースという物語が常に想起される点で
「純」音楽的でないなどと言われたりしますけれど、
実はどんな音楽を聴いても何らかのイメージを思う浮かべてしまうのが聴き手であって、
そこらへんに「純」なものを求めるのがどだい困難なことでもありますよね。
いわゆる「交響曲」を聴いても、頭の中で物語を作ってしまったりもしますし。
聴き手の側の正直なもので、
休憩前に演奏されたショスタコーヴィチ のチェロ協奏曲第1番では、
やはり形式重視系の協奏曲、それも20世紀の作品とあって
夢うつつの世界にたくさんの人が遊んでいたようなのですが、
これがアンコールでサン=サーンスの「白鳥」が演奏されるや、
その流れるメロディーにうっとりしたりしているのですから。
ましてや「シェエラザード」には大喝采。
流麗なメロディー、小気味よいリズム、重厚なハーモニー、こうしたものに取り巻かれれば
誰というでなく精神的にいい方向に向かいましょう(いくつかの20世紀音楽の効果とは異なって)。
…とまあ、演奏会の話というには飛躍に過ぎてしまいましたけれど、
いまさらながら「音楽」は「音」と「楽」なのであるのだなと思ったのでありますよ。