南西ドイツ紀行 はつい先日書き終えましたけれど、
その書き終わりが近づく中でふと思い出したことがありまして。
サイドトリップで立ち寄ったフランスはコルマールの市街 が
ジブリ作品「ハウルの動く城」に使われているというだったのですが、
とんと映画の方を忘れておりましたのでこの際だからと見直してみたという次第です。
すると、確かにあの大きな出窓が特徴的な「プフィステールの家」が
実際に見たまんまでもあろうかという感じで街中に描き込まれておりましたよ。
と、きっかけ的に言えばそれだけの話でして…と言いますのも、
実はこの「ハウルの動く城」という作品、初見のときにも「う~む、今ひとつだのぉ…」と
複雑な思いを抱いた記憶があるものでして。
で、見直してみてもやっぱり…と思う一方で、最初は思い至りませんでしたけれど、
なんだか「千と千尋の神隠し」の焼き直しのような気がするではありませんか。
もちろん「千と千尋…」では日本の土俗的な、まじないっぽさが見られたのに対して、
「ハウル…」は明らかにヨーロッパ世界での魔法を描いている違いは明らか。
ですが、ソフィーが魔法で90歳の老婆に変えられるのと
千尋が「千」と名付けられて別人格でもあるようにさせられるのは
いずれもヒロインが本来の自分を失わされてしまう点で同じではないかと思いますし、
ハウルの方もハクが思い出されるようですよね。
そんなふうに思うとき、はて原作ではどうなのか?と、
たまたまにもせよ原作には戦争絡みの筋は無いということを聞き及んてなおのこと、
こりゃあやっぱり原作に当たってみんことには…と思ったのでありますよ。
ということで、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作「魔法使いハウルと火の悪魔」を読んでみますと、
驚くほどに違う話ではありませんか。
もちろん映画が原作からあれこれ持ってきていることはもちろんながら、
最後まで読み通してみれば(これが何故だかえらく苦労しました…)要するに別ものだねと。
だいたいソフィーの妹は映画ではチョイ役程度ですけれど、原作では必ずしもそうではない。
しかもレティー、マーサとがそれぞれに個性をもった存在になってますし、
実はこの三人姉妹だというのはヨーロッパで書かれた原作にとっては大事なところでしょう。
以前にもヨーロッパの方の童話で「3」がキーになること は書きましたですね。
ですから、原作の中でソフィーがしきりに「長女である」ことの嘆きを口にするのも、
おとぎ話でひとり目が失敗し、ふたり目が失敗し、最後に三人目が成功するてな展開が
定石になっているのを踏まえているからなのですなあ。長女=失敗するに決まっていると。
そうしたことなども含めて映画ではごっそり取り払い、
Wikipediaにあるような「戦火の恋」になってしまっているのはやっぱり別物というしかない。
ジブリ作品では前にも「思い出のマーニー 」で映画と原作の違いを云々しましたが、
「ハウルの動く城」の場合はもはや比較対照することに意味はなさそう。
それぞれをそれぞれに見て読んでというふうに受け止めるのがいいようでありますよ。
ところで、毎年この時期恒例ですが、ちと新潟に出張してきますので、
明日はお休みということでお願いいたします。