ファンタジーを楽しむには余り細かい詮索は止めておいた方が…。
そんなふうに思いはするのですけれど、ついついあれこれと頭を捻ってしまったり。
ジブリ映画 の「思い出のマーニー」を見て、
そして原作(原題は「When Marnie was there」)を読んでのことですが、
まあ、映画を見た後すぐに原作に当たろうとすること自体、
「どうなってんのよ?」という印象だったことを如実に表しているとも言えましょうなあ。
昨今の状況からすれば、
主人公アンナが日本人であるという設定をその名前だけで変には思わなくなってますけれど、
舞台設定を全て日本に置き換える必要がどこまであったか…てなあたりが
最初に「う~む」と思った点でしょうか。
ジブリ作品では「風の谷のナウシカ
」、「天空の城ラピュタ」、そして「魔女の宅急便」や「紅の豚」と
いくつも日本を舞台とはしていない(あるいは無国籍な、架空のと言えるかもですが)設定で
作られたものがあって、まずもって日本で公開されることを前提と考えたとしても、
日本が舞台となっていないことに違和感を抱くものではなかったろうと思うわけです。
一方で、「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」とかが日本を舞台としているのは
意図があってそうなっているわけですし。
だからと言って舞台設定の置き換えを完全否定しているのではありませんで、
どうせやるならとことんやったらいいのに…とも思うからでありますよ。
(あたかも川上音二郎と貞奴が「オセロ」を翻案したように?)
やはりジブリ映画の「借りぐらしのアリエッティ」を見たときにも同じようなことを思いましたが、
あちらはまだ小人という明らかにファンタジックな存在である分、なんとかスルーできないこともない。
ですが、こちらは完全に日本を舞台に置き換えて、
原作ではマーニーが怖がる対象を風車小屋としているのをサイロにして整合させる努力が窺え、
他の努力も概ね成功しているようではあるものの、マーニーやその父親の姿が
いわゆる外国人のままであることは自然に物語を受止めるというふうにはなりにくいような。
ご覧になっていない方にはネタばらし的になりますが、
一見して日本人ぽく描かれているアンナ(まあ、アニメですが)の
「眼が実はうっすら青みがかっている…」てなことを登場人物の一人に
言わせなくてはならないところは無理してるなあと。
いくらアニメでも、映像だけで見ている側に
「ああ、アンナの眼はうっすら青みがかってるな…」と気付かせることは不可能に近いものと
想像しますので、最後の謎解きで「やっぱり」と思わせるのには
この説明的な台詞が必要になってしまうのですよね。
それから養母や周囲に対するアンナの接し方ですけれど、
「みんなは内側、自分は外側」とアンナが感じているところは原作、映画ともに同じながらも、
原作では思春期の反抗、悩みという印象が強いことに対して、映画の方では
もそっと違う心の闇(とは大袈裟ですが)さえイメージさせる強調が感じられてしまう。
(制作側にその意図があったかどうかは知りませんけれど)
養母から離れて暮す中でマーニーとの関わりという特殊な事情があったにせよ、
原作ではリンゼイ一家の子供たちと頭をからっぽにして遊び廻ることで成長する
アンナの姿が浮かぶわけですが、映画の前提はちと複雑に過ぎる印象を拭えないために、
似たような通過儀礼があったにせよ、最後に養母を「おかあさん」と呼ぶことに至るには
まだ足りない気がしてならないわけです。
原作のプリシラが映画ではさやかの役どころですけれど、
さやかはもっぱら一人でアンナと相対するのに比べ、
原作のプリシラも肝心な役割ではあるものの、
リンゼイ一家の一人としてアンナと向き合うことになる。
そして、映画ではおよそ描かれないさやかの家族、原作のリンゼイ一家との関わりこそが
アンナをひと回り大きくした…その部分が映画にはないものですから。
マーニーの日記という素晴らしい発見をしたのがプリシラとアンナの二人だと
思ったリンゼイ夫人はふたりを褒めるのですが、
見つけたのはプリシラ一人でと分かっているアンナは「自分じゃない」と答える。
これに対して、リンゼイ夫人はアンナにこんなふうに声を掛けるのですね。
ともかく、どちらが見つけたにしろ、これはあなたがた二人の財産だわ。本当に素晴らしいと思う。
一点の曇りもない肯定、そして賞賛。おそらく他者のそういう反応を、
それまでのアンナは経験したことがなかったのではないですかね。
思春期の反抗ではもはや太刀打ちできない許容でもありましょう。
リンゼイ一家のご主人もまた人格者であって、アンナの心を響かせるものがあったはず。
こうしたプロセスが映画では残念ながら出てこないのですよね。
(多分にその要素を、アンナを預かる大岩夫妻に委ねてもいるのでしょうけれど)
なにやら原作ばかりを持ち上げているようですが、そもそも方向性の違いがありましょうか。
原作が何よりアンナの成長物語に帰着するものであって、マーニーの話は大きな挿話ですけれど、
映画では同じ帰着としながらもマーニーとの交流の部分を最も重視したのであろうと。
ま、いずれを気に入るかはお好みということになりますかね。
ただ、「見る」+「読む」があって思いの深まった「思い出のマーニー」でありましたですよ。


