すっかりシュパイヤー大聖堂 の話が長くなってますが、
最後には地下聖堂、クリプタへと降りていったお話であります。


内陣に向かって右手の側廊を奥へ進んだところにクリプタへの入口がありまして、
そこで入場料を払うことに。日本語の解説リーフレットが置いてあったのには驚きました。
(ちなみにシュパイヤーではたった一人の日本人も中国人も韓国人も見かけなかった…)


とまれ、地下空間とはいえ結構広いのでして、ここもまた十字架型をしてますが、
地下聖堂としては世界最大級なのがこのシュパイヤーのクリプタであるそうな。


元来ミサを行う場所として造られたそうですけれど、
大聖堂には聖職者の数も多く、司祭には毎日ミサを行う義務があったそうで、
そのためこのクリプタには祭壇が7つもあるという。


シュパイヤー大聖堂クリプタの主祭壇


これはその中の主祭壇でして、十字架型をしたクリプタの一番奥の部分にあたります。
祭壇後ろ側の半円を描いた壁には、主祭壇を左右から挟むように2つのレリーフがあり、
いずれも墓守の姿を掘り出したもの。1508年のものだそうですが、結構精細です。


墓守のレリーフ


と、今度は主祭壇を背にして反対側に目を向けますと
真正面に明るくなっているところが見えますが、
その先が神聖ローマ皇帝らの墓所になっているのでありました。


主祭壇から振り返れば皇帝墓所


で、近付いていきますとすぐ目にとまるのが、ひとつのレリーフ。
王冠を戴いて王笏を持ち、足元では獅子を踏みつけにしている姿は権威を示すも、
その老いも露わで「とほほ…」な表情は何としたことか。


神聖ローマ皇帝ルドルフ1世


ハプスブルク家 で最初に皇帝となったルドルフ1世(1218-1291)の
存命中に造られた似姿ということですけれど、
中世においてこんなふうに写実的に造るのは珍しいのだとか。

よくまあ、これが破棄されなかったもんだと思うと同時に、
作者は無事でいられたろうか…と余計な心配をしてしまうところです。


何しろ左右の両壁面には別の皇帝たちのレリーフが飾られ、
掘り出されたところは写実的ながらもいずれ劣らぬ偉そうな雰囲気を
十二分に湛えていたものですから。


皇帝墓所@シュパイヤー大聖堂


と、いよいよ最奥にある墓所へと入っていきますと、
実に整然と石の柩が並べられておりました。

手前側に5つの柩が何とかご覧になれようかと思いますが、この中央がルドルフの墓です。

その右側の2つがバルバロッサと呼ばれたフリードリヒ1世の妃と息子の墓なので、
真ん中は当然にフリードリヒ1世のための場所として取ってあったものの、
第3回十字軍で出征中に亡くなったことで空きになっていたようす。

ここにルドルフが目を付けて体よく自分の墓所にしてしまったといことでしょうか。
ここでも権力交代を見るような気がしますですね。


奥側にも(高さはでこぼこしてますが)5つの柩が置かれています。
真ん中の柱と柱の間に見えているのがコンラート2世で、
シュパイヤー大聖堂の建造を命じた皇帝の墓所。

で、大聖堂の建造は左隣のハインリヒ3世、さらに左隣のハインリヒ4世へと
受け継がれて行った…とは、聖堂西側入口のプレート のところで触れましたとおり。


ですが、そのときにはさらっと流してしまったものの、
ハインリヒ4世と言えばあの有名な!「カノッサの屈辱」の当事者ですなあ。


叙任権闘争で教皇グレゴリウス7世と争って破門されたハインリヒ4世、
破門を取り消してもらおうと雪の舞うカノッサ城外で教皇の赦しを求めた…てなところから、

世界史の授業の聞きかじりだけではダメダメ感ばかりが印象に残る皇帝ですけれど、
どうやらそれは話の一部分でしかない…とは、後から知ったこと。


ハインリヒ4世自身、破門されたことを何とも思っていなかったのではないですかね。
むしろキリスト教を信仰する諸侯や各地の聖職者、果ては領民に対して
従来どおりに帝権、王権をふるうには破門されていてはまずいとかそんな思いだったのでは。
何しろ破門が解除されたと途端に、教皇への敵対行動は復活するのですから。


そんなことを思うと、キリスト教徒たちの大きなよすがとなる大聖堂建造に関わった皇帝の、
実のところの信仰心はどうだったの?となって、複雑な思いもしてくるわけですが、
そうしたことも含めて長い歴史を刻み込んだ建造物なのだなと思ったのでありました。



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