「木曽路はすべて山の中である」とは島崎藤村「夜明け前」の書き出しですけれど、
妻籠宿 とその次の馬籠宿のいずれにも深い関わりのある藤村だけに、
この二つの宿場のあたりがいかにもそれらしいのは象徴的なことでありましょうか。


広重 の「木曽街道六拾九次 之内 妻籠」と英泉の「木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖」、
いずれにもそれらしさが見て取れるではありませんか。


歌川広重「木曽街道六拾九次之内 妻籠」

渓斎英泉「木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖」


そうしたようすを直に知るには実際に歩いてみるのが一番なわけでして
妻籠と馬籠の間はおよそ7~8kmと歩いて歩けない距離ではない。
ですが、峠越えになるのと猛暑日と思しきお天気(「夏でも寒い」はずが…)には
その気もいささかしぼむところかと(だいたい年寄連れなので端から無理ですが)。


ですが、そんな峠越えの道を歩いている人たちがいるのですなあ。
見かけたのは全て外人さんでありましたですよ。


馬籠宿に到着すると外人さんの数はさらに増え、
漏れ聞く言葉に耳を傾ければ「お客さん、スペインから?」という感じ。
もしかするとサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の路 を踏破したような強者たちが
続々と木曽路を目指していたのでありましょうか…。


中山道馬籠宿

それはともかく馬籠宿に到着いたしました。江戸へは八十里半、京へは五十二里半と、
もはや京の方が近くなってることに感慨ひとしおと申しましょうか。
ちなみに見えている車道沿いが馬籠宿ではありませんで、
この車道に交差する坂道が宿場町を形成しているのでありました。


馬籠は「坂のある宿場」と言われ…


現地の解説板によりますれば「街道が山の尾根に沿った急斜面を通っている」ために、
その尾根道の両側に石を積んで平らな土台を設け、屋敷を造っているのが特徴だそうです。


石積みで土台を平らにし…

が、馬籠宿は明治28年(1895年)と大正4年(1915年)の二度にわたって大火に見舞われ、
江戸期の遺構は焼失してほとんど残っていないのだとか。
にもかかわらず、奈良井宿、妻籠宿と並ぶ観光名所となっているのは
往時を偲ぶ姿に再建された軒々が急坂に連なる宿場の個性と島崎藤村でもあろうかと。


繰り返しになりますが、藤村が生まれたのは馬籠宿の本陣。
やはり明治28年の火災で焼失するも、跡地に今は藤村記念館が建てられておりまして。

個人的には当然に立ち寄ろうかと思うところながら、
容赦なく照りつける直射日光の下、坂道のアップダウンを歳とった両親に強いるわけにいかず、
馬籠宿の全体像を見通すのはまたの機会とならざるを得ず、藤村記念館もその折りにと。


清水屋資料館@馬籠宿


それでも、せめてもと覗いてみましたのが「清水屋資料館」。かつて町役人を務めていた家で、
藤村の小説「嵐」に「森さん」として出てくるのは、この清水屋の人だそうですよ。

こちらを江戸期の品物などがもろもろ展示される資料館にしてしまっている関係か、
お向かいには新清水屋があって、こちらは現在も商い中。


新清水屋@馬籠宿


なんだか江戸ならぬ昭和が漂う店の雰囲気があって、これはこれでよいなあと。

と、いささか遅まきながら中食に「里おろし蕎麦」という具だくさんの冷たいお蕎麦を。
それにしても本当に暑い日だったのでして、冷たい蕎麦に冷たいビール、生き返る瞬間でありましたよ。


里おろし蕎麦@そば処まごめや

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