ということで、つるつるぬるぬるの温泉 で汗を流した翌日は、
朝一番から中山道42番めの宿場である妻籠宿を訪ねたのでありました。


中山道妻籠宿


まだ朝早めであるからでしょうか、ひと通りもなく落ち着いたというか、
寂しいともいえますが、町並みはこんなふうでありますよ。


妻籠宿の町並み


「日本で最初に宿場保存事業が行われた」寺下地区(宿場の一番南、馬籠宿寄り)のようすですが、
同じように町並み保存とは言いながら雰囲気はずいぶんと異なるような気がしますね。
必ずしもぴったり来る例えではないものの、SLの保存に擬えてみますと
奈良井宿 の方は動態保存で妻籠宿の方は静態保存と言いましょうか。


本来SLは動いて人や物を運ぶものですから、その本来の目的を果たすことをも含めて
動くままに保存するというのが動態保存でしょうけれど、奈良井の場合は宿場である以前に
「町」という人が住み生活する場であることとの共存ベースである気がします。


ですが、妻籠の方はもそっと歴史的なものを保存するという意識が強いのか、
かつてのありのままをそのままに静かに封じ込める保存、つまりは静態保存に近いような。


観光主体ならば奈良井がうれしく、歴史探訪的であれば妻籠が興味深いとも言えましょうかね。
そうは言っても、妻籠の一筋縄ではいかないところも垣間見られはするのでして、
やはり観光が産業となっているのは代わりがないところがありましょうから。

妻籠の郵便配達夫


例えば宿場の通りを駆け抜ける郵便配達の衣装はこんなふう。
観光客としては「ううん、気がきいてるねえ」などと思うところながら、
その実、郵便制度が始まるのは明治になってからで、宿場は江戸の制度では?と思ったり。


まあ、これは町並みの中ほどにある妻籠郵便局の開局当時のことが
島崎藤村の「夜明け前」に出てきたりするという由緒もあり、
また郵便局に郵便史料館が併設されていたりするのと関わってのことでもあるようで。


ところでその島崎藤村ですけれど、母親が妻籠宿の本陣を代々務めていた島崎家の出で、
同族であった馬籠宿の島崎家に嫁いで生まれた七人兄弟の末っ子であったそうですな。
同族だけに行き来も頻繁だったのでしょう、妻籠宿本陣の幕末最後の当主となったのは
馬籠から妻籠の島崎に養子に来た藤村の兄であったそうな。


妻籠宿本陣


残念ながら本陣は取り壊されてしまい、現在建っているのは
1995年に「江戸後期の間取り図を元に忠実に復元」したものだそうですが、
本陣のお隣には「人馬会所」なる役所がありました。


妻籠宿本陣人馬会所


そこでの説明書きによりますと「人馬会所」にはこのような仕事があったということです。

宿場の最も重要な役割は、公用の旅客に人馬を提供することでした。妻籠宿には、本陣と脇本陣にそれぞれ人馬会所が設けられ、半月交代で勤めました。人馬会所には問屋・年寄・帳付け・馬指し・人足指しなどの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割振り業務を行いました。人馬会所前の道路は広く、宿内で最も賑やかなところでした。

宿場というのが単なる町ではなく、幕府が置いた宿駅制度の中で果たすべき役割が
きちんとあったことを思い出させてくれますですねえ。


先に妻籠は静態保存と言いましたけれど、

全体が完全に博物館化しているわけではありませんので、宿場を流して歩いていますと
(奈良井に比べて少ないように思えるものの)暮らしぶりやそのなりわいたる商売の姿が

見えてくることも、やはりあるわけでして。



右下のお店は妻籠としてはかなり異彩を放っているふうでもありますが、
全体が明治村とか江戸東京たてもの園とかではないことが想像できるのではなかろうかと。

タイプが異なるだけに、奈良井宿と妻籠宿とどちらをより気に入るかはそれぞれと思いますが、
いずれもちょいと通りすがった印象で敢えて言うならば、個人的には妻籠宿かなと思ったり…。



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