文楽公演 を見るために訪ねた国立劇場には

伝統芸能情報館という施設が併設されていたものですから、
開演前のひととき、こちらに立ち寄って付け焼刃ながら「文楽とは何ぞ?」という予習を。


いかに文楽のことを知らなかったかをさらに披露するのも如何なものかとは思いますが、
そもそも「浄瑠璃」=「芝居」と長らく理解していたのでありました。


これはこれでシンプルな類推でして、

文楽、人形浄瑠璃は間違えようのない人形芝居であることから
「人形」「浄瑠璃」=「人形」「芝居」の両辺を「人形」で割れば?

「浄瑠璃」=「芝居」が残るという。ただそれだけ…。


ところがそうではないのだと気付かされたのは、実は落語のおかげなのでして、
去年の年末近くに放送された「日本の話芸」でも桂文珍が取り上げていましたですが、
「寝床」というネタでして。


長屋の大家さんが「料理も酒も用意して、みんなが来るのを待っている」と触れまわさせるも、
店子たちはなんだかんだと理由をつけていっかな集まってくる気配がない。


貧乏長屋のこと故、食べ物飲み物をごちになれると聞けば飛んで来るのが常日頃ながら、
誰一人やってこない理由はといえば、会合の趣旨が大家さんの浄瑠璃を聴くことなんですな。


下手の横好きである大家さんの浄瑠璃。
聴かされた者はたちどころに具合を悪くし、七転八倒するてな経緯が知れ渡っておれば、
近付きたくないのは誰しも同じ…というわけで、知らぬは大家ばかりなり。


てな具合の話ですけれど、なんとか聴衆を集めて始めた浄瑠璃のようすを
文珍師匠の語りで再現すれば「うぅあぁ~、うぅあぁ~」という単なる唸りにも似ている。
ということで、「浄瑠璃」と「芝居」とは似ても似つかぬものと分かるわけですな。


歌とまではいかない独特の節を付けて語る「浄瑠璃」は「語りもの」とも言われるようですけれど、
古くからあった「古浄瑠璃」なるものがあったそうですが、

独特の節回しをつけて竹本義太夫が始めたものが義太夫(義太夫節)であって、

頃は江戸期の初め頃であったとか。
つまりよく聞く「義太夫」という言葉は「浄瑠璃」の一種なのですなあ。


ところで「人形浄瑠璃」を「文楽」とも言いますけれど、
一旦廃れかけた「人形浄瑠璃」の再興を果たしたのが植村文楽軒という人。
19世紀初めと言いますから、江戸期も終わりに近付いた頃になりましょうか。

「文楽」の名称はここから来ているとのことです。


と、伝統芸能情報館ではこうした歴史的なところであるとか、
「人形浄瑠璃」は大夫(浄瑠璃を語る人)、三味線、人形遣いの三者で織り成されるとか、
人形は(動きのシンプルなものなどを除き)主遣い(おもづかい)、左遣い、足遣いの3人で操り、

主遣いがかしらと右手を、左遣いが左手を、足遣いが足回りを担当しているとかいうことを知る。


はたまた足十年、左十年と言われる修業を経てようやく主遣いにという世界となれば、
主遣い一人は黒子の衣装被らず出てくるスタープレーヤーということなのであろうてなことなど、
いろいろ情報を仕入れて公演に臨んだのでありましたですよ。


されど後から気付けば、

館内の端末で見聞きしたこうした情報は「文化デジタルライブラリー」というサイトで
いつでもどこでも見聞可能だったとは。もそっと予習のしようもあったというものです。


ちなみに伝統芸能情報館では折々に企画展示が行われるようで、
訪ねたときには「新派の華―面影と今日―」という展示でありました。


「新派の華―面影と今日―」@伝統芸能情報館


「新派」と聞くとその名のわりには古ぅい印象を受けますが、
元はといえば歌舞伎を「旧派」といい、新しい演劇を「新派」と称したことに発するようで。

発端は明治初めの壮士劇、書生劇あたりになるとのことですけれど、
どうやら川上音二郎、貞奴の果たしたところが大きいようす。


上のフライヤーに使われている画像は「新俳優似顔寿語録」というもので、
双六の上り(最上段中央)に配されているのが音二郎と貞奴ですから、

人気抜群だったのでしょうね。


役名として音二郎には「室中将」、貞奴には「鞆音」と添えられておりますが、
これが何とオセロとデズテモーナのことであって、

芝居は当然にシェイクスピア 「オセロ」の翻案であったのですなあ。


とまれ、今日の今日まで全くぴんと来ていなかった(むしろ眼中に無かった)「新派」なるものも
食わず嫌いでは語れない…ということには気が付きました。


国立劇場では3月に大劇場で新派公演を取り上げることからすれば番宣企画のような展示で、
釣られそうになってる気配もありますけれど、それにしても伝統芸能というのも
幅が広く奥行きも深いものでありますなあ。


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