何度か触れておりますように、

館林は渡良瀬川 と利根川に挟まれて湿地や沼の多い土地柄であれば、
榊原康政 始め、堤防を築いたりといった洪水対策を施したとしても、
そうそう水害から逃れられるはずもない…と考えると、

やはり被害には遭っておろうなぁと思うのが、足尾鉱毒事件でありまして。


足尾鉱毒事件田中正造記念館@館林


武鷹館 の斜向かい、ほんの一投足で到達できる場所に「足尾鉱毒事件田中正造記念館」はありました。
この記念館のすごいところは、NPO法人の方々が資金繰りに難儀(たぶん)しながらも、
事件のこと、
田中正造 のことを後世に語り伝えたいとの思いで作り上げたが故に、
展示資料が見事に手作りなのでありますよ。


今日び、博物館やら資料館やらでは、PCやらAV機器やらを使ってツカミをよくするとか、
インタラクティブなやりとりで理解を深めるとか、さまざまな工夫がなされるのが常ですが、
考えてみれば「お金を掛けられれば、そうもできる」ということであって…でありますね。


ですから、展示に関しては文字も図も絵もおよそほとんどが手書き。
昔、小学校でやったグループ学習発表会を思い出したりするのでありました。


そんな展示に「ほぉ~」と思いながらゆっくり見ておりますところへ

奥の方から「こっちへおいで」と声が掛かかり、呼ばれるままに覗いてみれば、
「座布団あてて、座って」「お茶、いれたから」と、当のNPO法人の方々。


と、お茶ともにタッパが出されて「食べてみなさい」と。
中には小さな粒々がたくさん入っているのが見えたですが、その形状からして

「こりゃあ、何かしら虫の子か何かを乾燥させたものでもあるか…」と訝しく思い、
手を出せずにいたですが、「ええい、ままよ」と数粒つかんで口へ放り込んでみたという。


酷く硬くてぼりぼり、ぼそぼそしていて決しておいしいものでも、食べやすいものでもない。
しかしながら、種を明かされて「そうなんだ」と思いましたのは、

これが炒った米であるというのですね。
何でも「押出し」に際の携行食料として持っていったものなんだそうです。


ここで言う「押出し」というのは、
足尾銅山から流出・放出された有害物質(いわゆる鉱毒)による被害を理解してもらい、
国に対策を求めるために渡良瀬川流域の農民たちが大挙東京へと陳情に出向くことでありまして、
当時は当然に徒歩で日数も掛かることから、こうした携行食料が必要だったわけですね。


で、茶のみ話のついでに、
展示を最後まで見れば分かることなのかもしれませんがと断った上で尋ねてみたですよ。

渡良瀬川を流れ下る鉱毒がさらに下流(もちろん東京も含む)へと行かないように、
今の渡良瀬遊水地のある辺りの農民を強制的に立ち退かせて溜池を造ったということは、
今でこそ渡良瀬遊水地はラムサール条約の湿地として、またハート型の池てなことでも
さも観光地然となっているものの、そこに溜まっている水は大丈夫なのですかと。


実のところ、これには答えにくそうにしていたですね。
数値の計測は行っていて「すぐさま、人体に影響の出る値ではない」てなことを言ってました。

「すぐさまではない、ということは?」と重ねて問うてはみましたけれど、

この方たちを追求することに意味はありませんので、ほどほどにしとくことに。


田中正造がいた当時もそうですが、

国との和解でそれ以上はもう触れないという人たちがいましたし、
今の渡良瀬遊水地が観光対象であることで生業を立てている人たちもいましょう。
それを一概に悪いとは言いきれないのですよね。生活が係っているとはいえますし。


先には渡良瀬遊水地のことを云々言いましたですが、

おおもとの根っこのところである足尾銅山、これ自体、国の史跡に指定され、

周辺地域では世界遺産化を目指していたり、銅山観光を呼び物にしてたりするわけです。


まあ、これを通じて足尾鉱毒事件を知る人もいるかと思えば、

これまた一概に「どうよ?」とは言いにくいわけですが、

かつての精錬過程での排煙で草木の生えないはげ山になってしまっている一帯が

今でも残されているというのは癒えない傷を背負ったままということなわけで。


茶のみ話をしていた座敷からは記念館の裏庭が見通せるのですけれど、

そこには足尾の山々とそこから流れ下る渡良瀬川沿岸の様子を再現するジオラマを製作中とのこと。


当然にこれも、NPO法人の方々がお金を出し合って、土やら砂やらを買ってきての手作り。

材料にも結構費用がかかるようで、完成までこぎつけるのは今しばらく先になりそうです。

先ほど触れた足尾のはげ山のようすも生々しいこのジオラマ、

せめてその製作に役立てばと些少ながらカンパを置いてまいりました(入場無料ですし)。


「結局のところ、福島に対する国と東電とおんなじですね」というつぶやきに、

「そうだね、繰り返してる…」と。

歴史に学ぶのは「繰り返してはいけないこと」なはずなのですが。