ドイツの放送局が制作したという「グリム童話」のTVシリーズを
しばらく断続的に見ておりました。


知ってる話、初めて知る話取り交ぜての15本でしたけれど、そもそも
グリム兄弟が採集した民話には恐ろしい部分も猥雑な部分も含まれることは

よく知られたところかと。


でもって、これを「童話」として扱うときには日本での子ども向けの本なんかもそうですけれど、
様々な脚色がなされたわけで、「本当のところは、どういう話なの?」というのが

見えにくくもなったり。


そこで、本場ドイツで作られたものはひとつの決定版だったりするのかなとも思ったですが、
さほどに恐ろしくも猥雑でもないとなれば、その辺りの脚色はなされていたのでありましょう、
お茶の間向けに(と、ドイツではリビング向けに…となるのですかね)…。


でもって例えばですが、そういう話だったのか…と思いましたのが
「眠りの森の美女」(グリムの本来的には「いばら姫」でしょうけれど)でして、
思いがけずもユダヤ との関わりが見てとれる(というか、見てとってしまった)のでありますよ。


一粒種の姫を百年の眠りに陥れてはならじと、

姫から紡ぎ車を遠ざけるのは分かるところながら
王さまは国内の紡ぎ車の一掃を命じるのでありますね。


「駄目ったら、だめ!可能性があるんだから、ひとつもだめ!」とは、
あたかもヘロデ王の嬰児殺しであるかのよう。


結果として国内では糸紡ぎできず、

これに頼った働き手はどんどん国外へ流出し、国力は低下して、荒んでいくばかり。


これに対して百年の眠りから覚めた姫がまずもって誓うのが

「人々を国へ呼び戻そう」ということで、

こちらはシオニズムの掛け声でもあろうかと思ったりしたものです。


とまれ、そんなふうに「グリム童話」シリーズを見ております時に、
「あ!こんなの、やってるんだ」と目にとまりましたが
「鷗外親子が訳したグリム童話」展@文京区立森鷗外記念館というもの。


「鴎外親子が訳したグリム童話」展@文京区立森鴎外記念館


これまで鷗外の旧居・観潮楼の跡には文京区立鷗外記念本郷図書館が建ってましたですが、
図書館の移転に伴って2012年に文京区立森鴎外記念館としてオープン、
そのうちには行ってみようと思ってはおりましたので、出掛けてみたのでありました。


文京区立森鷗外記念館


地下鉄千代田線の千駄木駅から団子坂を登りつめた高台に建っていた観潮楼。
辺りには「汐見」の地名の残り香(近くには文京区立汐見小学校というのも)があるようで、
おそらくかつては高台からの江戸の海を見晴らす場所でもあったのでしょう。


ただ、鷗外が移り住んだ1892年(明治25年)頃には、
「増築した2階部分から東京湾が眺められたことにより、観潮楼と名付けた」
と解説されておりましたように、江戸の町とは違った建物がすでに立て込んできていたのかも。


ところで、この場所には図書館が建っていたと言いましたように、
元々の観潮楼は火災や戦災で跡形もなくなってしまっているものの、
庭にあたる部分には往時を偲ぶものが残されてもいるという。


鷗外記念館庭園の石 「三人冗語」の三人(鷗外、露伴、緑雨)


左は、今の記念館の庭。

真ん中に何の変哲もない庭石がありますけれど、

これに鷗外が腰かけている(右側の)写真を見せられますと、
やおら「そうですか、そうですか」と有難い気持ちになるから不思議なものです。


ちなみに左で腰かけているのが鷗外、中央が幸田露伴 、右が斎藤緑雨で、
三人して雑誌に「三人冗語」なる批評を書いていた仲であるそうな。


さて館内ですけれど、鷗外は作家であり、医者(軍医)であったということは知ってましたが、
展示でもってその人となりを辿ってみますと、そうしたレッテルだけでは
見えないことがたくさんあるのだなぁとしみじみ。


取り分け家庭人としての部分と言いますか、とにかく子煩悩であったようですね。
例えばですが、鷗外が京都・奈良へ長めの出張に出掛けたときのこと、
子どもたちが寂しがるといけないからと毎日せっせと子どもたちへのハガキを書いた。


読んでいて微笑ましいというか、何というか。
こうした家庭が垣間見える面では漱石 と随分違うなと(当たり前ですが)思ったり。


そして「鷗外親子が訳したグリム童話」というのも、そうした子ども思いから出ているのでしょう。
長男の於菟(おと、オットー)は12歳から16歳の頃にかけてグリム童話を訳したそうですけれど、
そも於菟がドイツ語を学習するにも、鷗外がドイツ語の教科書を手作りして与えたというのですね。


ですから、グリム童話の訳出自体、

それに携わった年齢から言っても於菟には学習の一環のはず。
それでもこれが出版されてしまうんですからねえ、文豪・鷗外も子どもに甘いというか何と言うか。
(出版される経緯が詳らかではありませんで、想像ですけれど)


ところで、グリム童話が教材となればなおのこと、
先にふれたようにグリム童話が本来的に持っている恐ろしい部分とか、
ましては猥雑な部分とかは排除される必要がありましょうから、
何を訳すか、そしてどうのように訳すかも随分と親子で頭を絞ったのではなかろうかと。


かような側面に接するにつけ、「鷗外って、もしかしていい人?」と思ったりもしますですね。
別に悪い人と思っていたわけではありませんが、「舞姫」でエリスを置き去りにしたんだよね…
てな印象ではあったかと。


ですが、最後の最後、臨終の際に残した言葉は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」。
葬式も簡単に、墓も質素に…とあれこれの指示を友人に筆記させ、署名もさせて遺言としたとか。


明治の時代に陸軍軍医総監まで務めた人の葬儀となれば、

ほおっておくと一切が勝手に仕切られて大がかりな葬列になろうところを、

ひとりの人として死にたいというのが鷗外でありました。


三鷹の禅林寺にある墓所を訪ねたことがありますけれど、
雑司ヶ谷霊園にある漱石の巨大な墓標(漱石の遺志ではないと思いますが)に比べ、
周囲に紛れて分からないくらいの墓石がぽつんと立つだけ。

それにはこうした訳があったのですなぁ。


グリム童話からすっかり離れてしまいましたですが、
いつの機会にか鷗外探究もまたと思いつつ、記念館を後にしたのでありました。