興津で「めぼしい」ところの最後のひとつは、「坐漁荘」でありました。


一碧楼水口屋ギャラリーのところで触れましたように、
元老・西園寺公望はたいそう興津の景観と温暖な気候が気に入って水口屋に通った揚句、
ついには自前の別荘を建ててしまう…それが坐漁荘なのですね。


坐漁荘@興津


ですが、これも一碧楼水口屋ギャラリー の受付の方に伺ったところでは
本物の坐漁荘は1970年(昭和45年9明治村に移築されており、
興津にあるのは復元したものとのこと。
2004年のことだと言いますから、つい最近と言ってもいいのかも。


たぶん、この受付の方自身がこうした興津のあり方にいささか懐疑的というか、
忸怩たる思いを抱いてらっしゃのか…。
このあたり、あたかも足利織物伝承館 を訪ねた際に
「足利には何にも残っていないんですよ」と言っていた係の方を思い出しますですね。


とまれ、復元したというだけでも、

これまでとは興津の取組み方が変わったのかなと思ったりするところですが、

西園寺が愛したというその景観がすっかり変わってしまっているとなると、
また「うむぅ」というところに戻ってしまうような。

本当は眺めのよかったと思われる坐漁荘


裏手に回ってみると、1階には濡れ縁があり、2階には大きく取られたガラス戸で
いずれも景観が十二分に楽しめるようになっているわけで、
当時はまさにその庭先に海浜が広がっていたということなんですね。
が、今となっては海は遠く、車ばんばんのバイパスの向こう…うむぅです。


ところで、坐漁荘との名の由来ですけれど、
周の文王と後にその軍師となる呂尚の出会いにまつわる故事から採られたようですが、
西園寺としてものんびり釣り糸をたらして日々を送るような老後を考えていたのかもですね。

坐漁荘が建てられたのは、1919年(大正8年)で西園寺は70歳であったといいますから。


しかしながら、1940年(昭和15年)に91歳で没するまで長命であったが故に
坐漁荘にあって西園寺が耳にするのは軍部台頭による不穏な時局ばかり。
のんびり釣りでもというわけにはいかない日々を送ったことでありましょう。


そうしたことと関連付けるのはどうかと思うものの、
屋敷内を見て回った際に階段を上って一歩2階の床に足を下ろすと
床が「きゅいん」と鳴る…歩くたびに「きゅいん、きゅいん」、
鴬張りなのですよ。


不意に(?)誰ぞが2階に上がってきてもすぐに分かる仕掛け。
こうした施しを別荘にしなくてはならないとなれば、

果たして気の休まるときがあったのかどうか。
いやはやなんともです。


前庭の歌碑には「九十一を迎え 自らの一生を振り返る」として残された「西園寺公絶筆書」、
その心境やいかに?でありますけれど、最後の行を読み下しますと

「憂うる所は我が力のあらざること」。


人生の終焉を迎えて、日本は何でこうなってしまったか、

自分は果たして力を尽くしてきたのか…と、
自らを省みていたのかもしれませんですね。


と、全体として観光地然とした雰囲気があるわけではなかった興津ですけれど、
スポット、スポットを訪ね歩くことで、歴史のさまざまな面に出くわすその深さにおいては
由比宿 を優るものがあったようにも思います。


復元された坐漁荘は興津の観光案内所的側面も持っているようですが、
観光という面でこの後の興津はどうなって行くのでありましょうか…てなことを思いつつ、
清見潟という(今は影も形もない侘びしさを感じさせる)最寄のバス停から
しずてつジャストライン(早い話がバスのことです)に乗り込み、
一夜の宿のある清水へと向かったのでありました。