村上春樹『1Q84』 | Thinking every day, every night

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夢想家"上智まさはる"が人生のさまざまについてうわごとのように語る

文庫化を機に『1Q84』に挑戦し、先週読み終わりました。
単行本で3巻、文庫本だと全6巻の大部の長編小説です。

感想は・・・ (以下、ネタバレ注意!)




■消化不良の読後感

多くの読者がすでにいろいろなところで語っているように、これだけの分量を読み通したあとにもかかわらず、「終わった!」という読後感が得られませんでした。残念ながら良い意味ではなく、悪い意味で。

「え、これで終わり? あれはどうなったの? これは何だったの? あれは何のために必要なプロットだったの?」と、疑問形が次から次へと湧いてきます。

いろいろなことがOpenなままで小説が終わりを迎えること自体は、未来の可能性を提示するとともに、読者なりの消化の仕方を促し、いろいろなことを考えさせ思いを巡らせる小説の手法として必ずしも悪くないと思うのですが、『1Q84』のこのOpenさは、明確な効果を見通してひとつひとつ組み立てていったものとして、辻褄を合わせることがどうしてもできませんでした。

通常は、考えればある自分なりの結論(たいていは作者の意図したところからそう外れていない結論)に達することができるものですが、この作品については、あちらを立てればこちらが立たず、と整合性のある納得のいく居心地のいい着地点が見つからないのです。

多くの読者が、プロットに論理的な破綻があると訴えていますね。
また、何人もの評者が彼らなりのユニークな着想で、いろいろ深い読みをしていますが、どれも納得のいくものになっていない印象です。
#それにしても読書好きの皆さんの深い読みにはいつも感服させられます。ネットで「村上春樹 IQ84 書評 ブログ」などで検索してみてください。私のこの駄文とは比べようもない驚きの発見の宝庫です。

・2つの月のある「1Q84」年の世界と元の1984年の世界の関係とは?
・青豆と天吾はそれぞれいつ世界を移動した?
・というか世界を移動しているの?
・冒頭でタクシーの運転手が青豆にこれから起こる出来事に関して意味深なせりふを吐くが、これは何かの伏線ではなく、たまたま無意味な言葉を発しただけ?
・結局「リトル・ピープル」とは何者?
・「リトル・ピープル」と「さきがけ」の関係は?
・安田恭子が「失われてしまった」のは彼らの陰謀?
・「空気さなぎ」が象徴するものは?
・天吾の父親のベッドに現れた空気さなぎの中に幼い青豆が入っていたのは何故?
・「マザ」と「ドウタ」は何を意味する?
・「パシヴァ」と「レシヴァ」の役割は?
・ふかえりは結局「マザ」なのか「ドウタ」なのか?
・青豆のお腹の子供が天吾の子というが、それはどういうわけ?
・後半、天吾と青豆の話になってからは、深田絵里子も戎野隆之も唐突に物語から退場してしまうが、そんな幕の引き方で本当によかったのか?
…… などなど、疑問はいくらでも広がり、辻褄の合う回答をするのはきわめて困難です。

■辟易するセックス描写

私は「村上春樹さんの作品から過剰なセックス描写がなくなったら、どんなにか良くなるだろう」と思うタイプの読者なのですが、この作品も前半からポルノ小説まがいの描写が頻出し、毎度のことで「いまさら」と言われそうですが、げんなりです。
いや、同じ描写するにしても、もっと別の書き方があるのではないのかなあと思います。
よく言われるように、あくまで男目線で、受け身の男子の妄想と欲望を満足させてくれるような女性の描き方なんですよね。
しかも即物的で快楽的な描写が目立ちます。
今回も同様で、むしろこれまでより露骨かもしれません。
まあ、このあたりは好みの問題なので、「だったら村上春樹を読むな」とか「これらも全部ひっくるめて村上春樹なんだよ」と言われるだけかもしれませんが。
いずれにしても私個人の好みとして、そういう描写が村上春樹作品の評価を大きく下げる結果になっています。

■それでも魅力的なキャラ

この小説をストーリーだけでごく簡単にまとめてしまうと、「小学校時代に互いに片思いの相手と思っていた男女が20年ぶりに再開し、互いの心を確かめ合う」物語ということになります。
まあ、こうまとめてしまうと、身も蓋もありませんが。

そんなストーリーを、文庫本にして6冊ものボリュームの小説としてこしらえて、最後まで読ませてしまうんですから、ストーリーテラーとしての卓抜さは相変わらずです。

どの作品にも魅力的な登場人物が登場しますが、この作品の中で特に気になったのは、やはり、通称「ふかえり」こと深田絵里子ですかね。
この通称や名前についても、ネット上でさまざまな読みがなされていますね。村上春樹の好みの有名タレント複数人の名前を合成して作ったとか何とか…。

それはいいとして、「ふかえり」に特徴的なのは、これまでの村上春樹作品ではどちらかというと、饒舌で快活で行動的な女の子が登場したのに対して、社会性がなく、ディスレクシア(読字障害)の気があり、主語なし、語尾上げなしの、独白だか質問だかわからないような話し方をする17歳の女の子であること。
その反面、物事の本質を直感的にとらえる力に長けていたり、長い物語や外国語の歌をまるごと暗記したりする能力をもち、サヴァン症候群を思わせます。
また、容姿は人をハッと思わせるものを持ち、胸が大きく(この作品では胸の大小がやたら強調されます)スタイルも抜群というアンバランスさ。

この少女の偶像的な魅力に、主人公の天吾も、ブサイクな中年男の牛河も、そしておそらく村上春樹自身も一目惚れし、私も・・・

だからこそ、後半であっさりと「ふかえり」が舞台から姿を消し、その後の消息も一切わからないまま小説が終わってしまったことがとても心残りでした。

■もうひとつ変わったところ

これまでの村上春樹作品から少し変化したところとして、登場してくる団体や思想などが、どこかにある抽象的なものから、この現実世界のあの団体・あの思想というように、より具体的なものを想起させるものとして描かれていることが挙げられます。

「さきがけ」はオウム真理教や共産主義集団農場を想起させますし、「証人会」はエホバの証人や同様の宗教団体を想起させますし、「あけぼの」は赤軍派やあの浅間山荘事件を想起させます。
さらにNHK受信料の集金人が繰り返し登場し重要な役回りを演じています。

つまり、小説の持つ普遍性をあえて薄めて、1984年の日本という歴史上の現実世界をより具象的に描くことによって、作者の社会に対するコミットメントをより強く表明したということになるのだと思います。

ただ、繰り返しになりますが、いかんせん作者の意図がわかりにくい。
いや、もしかしたら、こういう「意図」とか「目的」とかを物事の背後に見ようとする姿勢そのものを作者は否定しているのかもしれませんね。
世界は、たまたま、いまあるようにあるにすぎず、また違うようにもあったかもしれず、目の前にあるものを丸ごと現実のものとしてOpenに受け入れるしかない?

■盛り上がりに欠ける大団円

この作品の読後感がすっきりしない要因のひとつとして、青豆と天吾が急接近した後まだまだ紙数があるにもかかわらず、どんでん返しや意外な展開もなく、ふたりの予想通り/理想通りに物事が進展し、めでたしめでたしでまとまる話の流れがあります。

逆にいうと、今回の作品では、作者の興味はそんなところにはなく、もっと別の問題提起で読者に考えさせたいという意図があるのかもしれません。

少し冷却期間を置いて再読してみようと思います。