紀元節と創氏改名 | 徐裕行のブログ

徐裕行のブログ

徐裕行の周辺で起きたことを
無理にでも拉致問題の解決に結びつける
うまく、落とせない時もあるけどね。

本日2月11日は建国記念日で日本の祝日ですが、本来は紀元節として明治以降祝われてきた日でした。(日本書紀や古事記では「辛酉年春正月、庚辰朔」つまり旧暦の1月1日-太陽暦1月29日-に神武天皇が即位した日として記録されているが、この日は孝明天皇の命日の前日であるため都合が悪いとして明治政府が新たに2月11日を紀元節に設定した。明治6年大政官布告344号)

ところで紀元節の2月11日は在日の歴史を紐解いても意味のある日です、と書いてピンと来た人は相当な歴史通かもしれません。

じつは、1940年2月11日は朝鮮系日本人の創氏の届出が始まった日です。この日から6ヶ月後の8月10日の間に朝鮮人は(この時点では国籍上は日本人であるが、便宜上、朝鮮半島出身者を朝鮮人と記すことにする)創氏の届出をしなければなりませんでした。
「朝鮮人は」と書きましたが正確には「朝鮮人の家庭の戸主は」創氏の届け出をする義務があった、ということです。

ここで、「?」と疑問を感じる人がいるかもしれません。

●日韓併合は1910年の8月29日から始まったんじゃないの?1940年に創氏が始まったとすると、それまでの30年間は朝鮮人は自分の姓を堂々と名乗れてたの?

●創氏があったのは終戦までのたった5年間?

●届け出って...?創氏は強制じゃないの?

●届出の期間が6ヶ月間?

●創氏は分かったけど、改名はどうしたの?創氏改名はセットでしょ?

まあ、他にも疑問はあるかもしれませんが、今回は要約だけ書いてみたいと思います。

因みに日韓併合(日朝併合と言う人もいますが、併合時は李朝は大韓帝国になっていましたので、日韓併合が正しい言い方だと思います)は1910年から1945年の35年間に亘っていましたが、創氏が行われるまでの30年間は朝鮮総督府は朝鮮人が日本風の姓や名を名乗ることを厳しく禁じていました。
たとえば併合前に既に日本風の名を付けられていた人や併合後に生まれた新生児に日本風の命名をした場合、これを朝鮮風の名に改めさせました。
また、それまでは新生児の名は届出制でしたが、日本風の名を付けさせないために許可制にしていました。
これは、朝鮮人が日本風の姓名を名乗ることで朝鮮人と日本人の区別がつかなくなり、取り締まりができなくなることを懸念してのことでした。

そもそも、日韓併合によって朝鮮人が日本人になったとはいえ、朝鮮人は日本の戸籍を持つことができませんでした。日韓併合前夜の大韓帝国時代に日本の官僚の指導のもと日本の戸籍制度を取り入れた民籍(それまでの李朝時代からの人別帳には女性は出身家庭の姓のみが記され、奴婢たちは所有者の人別帳の片隅にチビだの犬の糞だのクロだのといった綽名のような名と性別しか記されていいなかった)が導入されたのだが、併合後も民籍が戸籍に併合されることはなく、朝鮮人と日本人が混合することを避けていました。

併合時には日本人と商行為をする商人たちを中心に日本人風の姓や名を名乗る人たちがたくさんいたようです。資料は見当たらないようですが、いわゆる「朝鮮人の側も日本の氏を求めていた」という日本の一部の政治家の見解も、ひょっとすると併合後の朝鮮総督府の政策によって元の姓名に戻された商人たちが日本人と商売をする以上、日本風の名前が有利だと考える人たちがいたということをいっているのかもしれません。

あ、そうだ、次の話に進む前に創氏と改名の違いについて少し解説をしておきたいと思います。
創氏には「設定創氏」と「法定創氏」というのがあります。

●設定創氏というのは、前記の1940年2月11日から8月10日までの間に各家庭の戸主がその家の氏を設定して役所に届出なければならない義務を負った創氏のことです。この場合の氏の設定は日本風の氏でなければならず、朝鮮風の名字を氏として設定することはできませんでした。

●法定創氏というのは、上記の期限内に戸主が新しい氏を設定して役所に届けない場合、役所が事務的に戸主の姓をそのまま氏に設定することができ、その結果、その家の家族は全員が自動的に戸主の名を名乗ることになりました。


★豆知識
1.朝鮮人は姓を用い、結婚しても嫁は婚家の姓を名乗らず、出身家の姓を名乗り続けたので、一つの家庭の中に婆さんや母さん、複数の嫁がいた場合、一つの家庭の中に李さんや金さんや黄さんや洪さんなど複数の姓が混在していたのです。

2.そのため、朝鮮人は今でも自分の本貫(出身一族)への帰属心が強く、「私は○○の両班の出身だなどといって血族自慢をします。

3.創氏は朝鮮半島の人たちの約8割の家庭の戸主が日本風の氏を届出たのに対し、日本本土の朝鮮人で創氏の届出をした人は2割にも満たなかったのです。それは、いわゆる出稼ぎのような形で日本に渡ってきている若い人たちの戸主は朝鮮半島に住んでいて、自分には氏を決める権利がなかったからだと言われています。

そして、改名というのは、朝鮮総督府がそれまで厳しく禁じてきた日本風の名前を解禁し、それを名乗りたい人は手続きの費用を払って役所に届ければ、それを受け付けるというものです。
いわば、創氏が義務なのに対し、改名は許可であるというのが最大の違いです。

さて、それでは、それまでに厳しく禁じられてきた創氏と改名が何故急転して創氏の義務化や改名の許可につながってきたのでしょうか。
その理由として最も有力とされている説は大東亜戦争だとされています。いわゆる支那事変に端を発して日本と中華民国の間で戦闘が激化し、さらには選挙区が第二次世界大戦という大きな戦争に発展していく中で、朝鮮や台湾出身者たちの徴兵によって戦力を維持、増強させたいという意思があったというものです。

1940年。皇紀2600年という節目の年に半島出身者を皇民化する一大事業として創氏が行われることになりました。

突然ですが、続きはまた次回に持ち越しです。

当ブログでは、読者の皆さんに朝鮮総連に拉致問題の解決を訴える署名への協力をお願いしています。赤色文字をクリックして、署名にご協力ください。

署名フォーマットの貼り付け拡散にご協力をいただける方は、以下のURLをご使用ください。
http://my.formman.com/form/pc/1ETseQLRiBve8CTd/