【本編】episode55 心決めるバスローブ | 魔人の記

【本編】episode55 心決めるバスローブ

episode55 心決めるバスローブ


「…んあ」

玲央菜はベッドで目を覚ました。
体を起こし、もしかしたら住良木家かと辺りを見回したが、そんなことはなかった。

「あ…」

丸太の家の個室で彼女は寝ていた。
紫苑が酔って寝てしまった後で、黒服のひとりに案内された部屋だった。

リビングにあるものとはさすがに大きさがちがうが、この部屋にも暖炉がある。
そこから発せられる熱が気持ちよくて、玲央菜は何度か寝ては起きるということを繰り返していた。

「……」

ベッドから起き出し、立ち上がって体を伸ばす。
髪に手をやると、寝る前よりも広がっているのがわかる。

ぼんやりした顔で暖炉の炎を見ていたが、やがていくつかあるドアのうちのひとつを開けて中に入った。
そこはバスルームだった。

「ふわ…」

あくびをしながら脱衣所に入ると、タオル地のバスローブがハンガーにかけられているのが見える。
それは、少なくとも着替えはあるということでもあった。

「やっと制服脱げる…ふわああ」

玲央菜はそう言って、眠気に任せて雑に制服と下着を脱ぐ。
何も考えずに浴室に入り、備え付けのシャワーから湯を出した。

浴室にもすでに暖房が入っているので、裸で入っても寒さを感じることはない。
だが寝起きの玲央菜はそれに気づくことなく、少しぬるめの湯をぼんやりと浴びていた。

「……」

丸太の家では、やることがなかった。
雅人や紫苑の話を聞くという大事な用件はあったが、それも本人たちがいなければ始まらない。

加えて、その話というのも結局は玲央菜に投げられた時点で終わっている。

話を進めるにしても、ふたりがこの場にいる必要はない。
彼女が決断するかどうか、という話だからだ。

それに、彼女が考えている『やること』とは、そういうことではなかった。

「………」

湯が入っていないバスタブを見る。
卵型のそれは白く輝き、一片のくすみもない。

シャワーで濡れた指を押し当ててみると、キュッと音がした。
新品なのか、はたまた極限まで磨き上げられているのかはわからないが、とにかく掃除の余地はなかった。

「すっご」

見てみると、バスタブだけではなく壁も床も、シャワーのヘッドやホース、ハンドルレバーに至るまですべてがピカピカだった。

あの気位の高い紫苑が滞在するような家なのだから、掃除が行き届いているのは当たり前かとも考えた。

ただ、完璧に磨き上げられたそれらは、そういう前提があるとないとに関わらず、単純に美しいと玲央菜は思った。

「…榊さんもすごいけど、ここ掃除した人もすごいな…すごい人って、いっぱいいるんだな」

いつの間にか、そんな言葉が口をついて出ていた。
そのみずみずしい胸の奥で、何かがうずき始めている。

彼女自身もそれを感じているし、正体もわかっている。
だが、どうにも動き出そうという気にはなれない。

「……はあ」

息をつき、彼女はゆっくりと頭を横に振った。
その後でバスタブに湯を入れ始め、その間ずっとぬるめのシャワーを浴びる。

湯が貯まると、シャワーを止めてバスタブに入った。
少しだけ温度が高く、あたたかさが肌の中へ浸透してくるのを感じる。

暖炉のおかげで体はあたたまっていると思っていた彼女だが、風呂の湯のあたたかさはまた別物だと思った。

えり足が濡れるのもかまわず、口元まで湯につかる。
その状態で口から息を吐くと、小さな気泡が顔の前に浮かび上がった。

気泡は、破裂する時に湯を顔に飛ばす。
それが何度か目元に当たり、彼女は無意識にまばたきをしていた。

と、湯船の底で彼女の体を支えていた尻が、前にすべる。

「!」

わざと沈めていた顔が、いきなり湯の中に引きずり込まれる形になった。
玲央菜は慌てて両手をバスタブの縁に伸ばし、全力で体を持ち上げる。

「ぷぁっ」

浮力のおかげですぐに体は持ち上がり、呼吸も再開させることができた。
無事に危機を脱したとわかると、彼女は安心して息を深く吐いた。

「はー…びっくりした」

そう言いながら、両手を一度湯につけてから顔を拭う。
そしてもう一度息をついた後で、髪がすべて地肌や顔にぴったりくっついているのに気づいた。

髪を手で後ろへなでつけ、今度は両手をバスタブのふちに置いて天井を見る。
両手は、今度は尻がすべっても体が沈まないストッパーの役割を果たしていた。

「…ここじゃ、お掃除する必要…ないよねー……」

その声は、バスルームに軽く反響する。
自分の声を聞いた玲央菜は、小さく苦笑して「そだね」と、自分の言葉に応答するのだった。

それからしばらくして、玲央菜はバスルームから出た。
脱衣所に備え付けられていたバスタオルで体を拭き、バスローブに着替える。

「……」

脱衣所にはドライヤーもあったが、玲央菜はそれを使わずにドアを開けて部屋に戻った。

小さな暖炉のそばに置かれた椅子に座り、火が放つ熱が自身の輪郭をはっきりさせるような感覚に身を任せる。

5分ほど彼女はそうしていたが、やがてゆっくりとベッドに向かった。
横たわるのではなくそばに座り、ベッドの上に転がっていたスマートフォンを手に取る。

画面を見ると、時計は昼の12時を指していた。
だがこれは日本時間であり、玲央菜が見た窓の外は暗い。

「んー…」

マットレスの上に両手を置いてスマートフォンを仰ぎ見る。
かと思うと、手を下ろして画面を見下ろす格好にした。

彼女はスマートフォンを操作し、アドレス帳から電話をかける。
操作を終えて耳に当てると、呼び出し音が聞こえてきた。

それが5回ほど続いただろうか。
やがて相手は、彼女からの発信に応答した。

”もしもし?”

「もしもし…今、電話いいですか?」

”ああ、かまわないよ”

電話の相手は天馬だった。
聞き慣れた声に、玲央菜は自然と表情がゆるむのを感じる。

だが、自分が電話をかけた時間を思い出して、彼女は慌てて彼にこう言った。

「あ、すいません…お昼どき、でしたよね?」

”そうだけど、今朝は起きるのが遅くてね。ブランチがさっき終わったところなんだ”

「え? 起きるの遅いって珍しくないですか」

天馬は、玲央菜が学校に行く時には、すでにリビングのテーブルで席についている。
それは学校が休みの日でも同じで、少なくとも玲央菜には天馬が寝坊したという記憶がなかった。

「…あ」

玲央菜はここで気づく。
天馬は自分に気をつかわせないために、さらりと嘘をついたのではないかと。

だがそれを追及する前に、天馬の方が話しかけてきた。

”それより、どうかしたのかい? また紫苑にいじめられたかな?”

「え? あ、いや…そういうことはないんですけど」

話を変えられた上、それに返答してしまったので、ふたりの間で話題はそちらに移ってしまう。
玲央菜もわざわざ天馬の心づかいを暴き立てるつもりなどないので、もうそれには触れなかった。

そのかわりというわけでもないのだが、彼に疑問をぶつけてみる。

「あの…天馬さま、今回のことなんですけど…紫苑さんが、天馬さまも了解済みだって」

”了解…まあ、せざるを得ないっていうか。まさか実際に連れ去るとは思わなかったけどね…そっちで不自由はないかい?”

「あ、はい。よくしてもらってます、けど…」

”けど?”

「……」

玲央菜は、ここで紫苑が酔いつぶれた時に言った言葉を思い出す。
それを今ここで口にしようかどうか、迷った。

”玲央菜ちゃん?”

「え? あ、あの…雅人さんって、どんな人なんですか?」

天馬に催促され、あせった玲央菜は思ってもいないことを口にする。
だが彼はそれに気づかず、問われたことに素直に返答した。

”雅人? 俺はよく知らないけど、悪いヤツじゃないって聞いてるよ。紫苑から”

「あ、紫苑さん情報しか知らない感じですか」

”うん。俺は小さい頃から榊とあっちこっち転々としてたし、雅人は小さい頃ずっと桜おばさまと今キミがいる場所で過ごしてたし、会う機会がそもそもなかったんだよ”

「ああ、なるほど…」

”まあ、それでなくても俺が自分から会いに行く相手じゃないかな…彼の父親は俺の実家を目の敵にしていたみたいだし、その後紫苑が彼の家を叩きつぶしてしまったし。ちょっと気が引ける部分もあるんだよ”

どうやら天馬も、自身に悪魔がとりついた本当の事情を知っているようだ。
だがそれを暴いたのは紫苑であり、知っていて当然だと玲央菜は納得した。

”…ん? 雅人から何か言われたのかい?”

「い、いえ! シチューごちそうになったり、ハニーミルクいただいたり、今もとてもゆっくりさせてもらってて」

”ああ、シチューね。紫苑はもともとこれって好物がなかったんだけど、いつからかシチューがとても好きになったって聞いたなあ”

「そうなんですか?」

”うん。これまでは食事のことなんて考えてられないほどの激務でさ。ほら、俺の実家を立て直してくれたのは紫苑だから…”

「あ、はい。雅人さんから聞きました」

”ああ、聞いたんだ? そうなんだよ。だから何が好きかって俺が訊いても『わからない』って言うばっかりでね。俺が作ったものならなんでも、とかそういうことは言ってたけど”

「紫苑さんらしいですね」

”…あれ、でも…”

天馬はふと、そう言ったきり黙り込んだ。
玲央菜が問いかけると、彼は彼女に謝ってからこう続ける。

”ああ、ごめんね。そういえばここ最近は、あんまりそういうこと言わなくなった気がするな”

「そういうこと、っていうのは…天馬さまが作ったものならなんでもいいとか、『そういうこと』ですか?」

”うん。今までは気にならなかったんだけど、玲央菜ちゃんとこうして話してみて、なんか急に気になった”

「…もっ……」

玲央菜は、「もしかして」と言いそうになった自分の口を無理やり閉じた。
天馬はその声を不思議に思い、彼女に尋ねる。

”もっ? って、どした?”

「あ、いえ、その…えっと」

玲央菜は慌てて言い訳を探す。
その目が暖炉の火に留まり、彼女はすかさずこう言った。

「あ、あくびが出そうになっちゃって。無理にガマンしたら変な声が出ちゃいました。あはは」

”そっか、そっちは今ごろ夜だもんね…でもまだ寝るには早くない? 8時くらいだと思うけど”

「暖炉があったかくて、気がついたら何度でもうとうとしちゃって。えへへ」

”暖炉かー、趣があっていいよね。冬の間はこっちにも置きたいけど、排気の関係上なあ…榊がなんていうかな”

「あ、別におうちに暖炉がほしいってことじゃなくて。ただあったかいな~って」

”そういうことか。そっちは寒いらしいもんね、風邪には気をつけてね”

「はい。それじゃ…いきなり電話してごめんなさい。ボクもう寝ますね」

”もういいのかい? 気にせずいつでもかけておいで。それじゃ”

「はい。おやすみなさーい」

”おやすみ”

天馬が電話を切るのを待って、玲央菜は通話終了のボタンを押した。
押した後で、マットレスにぐったりと突っ伏した。

「あっぶな…」

彼女は、『もしかして』と言いそうになった自分を止められてよかったと思った。
今の時点で、言ってはいけない言葉だと思った。

もし言ってしまえば、天馬は玲央菜が何かを知っているのだと考えるだろう。
それに彼女はどう答えればいいのか。

「まさか、紫苑さんが結婚するつもりだから…なんて言えないよ」

天馬は何も知らないようだった。
だとすれば、紫苑の寝言について玲央菜が彼に何かを言うべきではない。

彼女はそう思っていた。
だからこそあの時、必死になって自分を止めた。

だがそもそも、あの寝言が気になっていたからこそ、『もしかして』と言いそうになってしまったというのもある。

「…うーん……」

突っ伏したまま考える玲央菜の脳裏に、紫苑の言葉がまたひとつ蘇ってきた。


”譲ってやるわけじゃないわよ、勘違いしないでよね!”


この言葉を皮切りに、紫苑が言った言葉がどんどん蘇ってきた。
そしてそのどれもが、「結婚」という言葉につながってくるような気がした。

結婚が正解だとすれば、紫苑は一体誰と結婚するつもりなのか。
だがもうそれを問う必要すらない。

天馬でないことはもはや明白なのだ。
義理であるとはいえ、妹である紫苑と兄である天馬の結婚が、皇家の中で認められるわけがない。

ならば誰が相手なのか?

「…やっぱり、あの人…だよね」

この家にやってきてからの、紫苑のくつろぎっぷりを思い返す。
これまで見たこともない紫苑であったし、同日のチャーター機での彼女の様子からも考えられない変わりようだった。

チャーター機とこの家の一番大きなちがいといえば、雅人がいるかどうかである。

「紫苑さんが付き合う男の人、ってイメージじゃないけど…でも男と女ってわかんないっていうし…」

紫苑は、『気の強い美女』をそのまま体現したような女性である。
対する雅人は、決して容姿が素晴らしいわけでも、紫苑よりもさらに利発というわけでもない。

ふたりを並べた時、どうにも一緒にデートしている感じがしないのだ。
だがそう思っているのは玲央菜だけで、当人同士は案外何も気にしていないのかもしれない。

「……まさか…」

ここで玲央菜はふと、何かに気づいた。

やはり、今回のことはおかしいと彼女は確信した。
雅人が湖とこの家を玲央菜に譲るために無理やり玲央菜をここまで連れてきた、というのは無理があると思った。

「…なんていうか、ちょっとやっぱり…はっきりさせよう」

そう言って、玲央菜は突っ伏していた顔を上げる。
そして立ち上がり、バスローブ姿で部屋の電話機に近づいていった。

受話器を上げ、内線電話をかける。

「着替えありますか? …はい、はい」

電話の向こうの黒服に尋ね、何度かうなずいた。
やがて彼女は電話を切り、暖炉の方へ向き直る。

「…よし」

彼女の心は決まった。
そのころには、濡れた髪も乾き始めていた。


>episode56へ続く

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