【本編】episode30 黒く染まる夜・4 | 魔人の記

【本編】episode30 黒く染まる夜・4

episode30 黒く染まる夜・4


”さあ、そろそろ答えを決めてもらおう”

「う、うぅ…」

悠然と立つ悪魔。その前で座り込んでいる玲央菜。
対峙する姿からして、彼女の劣勢は明らかだった。

悪魔は、3本ある左腕のうち1本と右腕とで腕組みをし、玲央菜を見下ろしている。

”あまり返事を待たせる女は好かれないぞ?”

「う、うるさい…!」

悪魔の余裕ぶりに、玲央菜は悪態をつくことしかできない。
彼女は今、必死になって黒皇刃にしがみついていた。

それは今の体勢でもあったのだが、精神的にもそうだった。
悪魔は玲央菜に黒皇刃を渡せと迫っているが、無理やり奪われそうにはなっていない。

ただそれは、背後にいる風野が今や戦えなくなってしまったからだと、彼女は気づき始めた。

悪魔は、自分にたてつく者がいなくなったことで、優越感から彼女の返答を「待ってやっている」のだ。
その気になればふたりとも簡単に殺せるという余裕が、今の時間を作っている。

だがそんな時間も無限ではない。

”時間稼ぎは無駄だ。今、主導権を握っているのは我であり、お前たちは殺されるのを待つ家畜でしかない”

「く……」

”黒皇刃をどうにかできれば、我に勝てると思っているのだろう? だが残念だな、その刀は誰にも抜けん。そう、この我にも抜くことはできん”

「……抜くことができないなら、こだわる必要なんか…ないよね」

玲央菜は、勇気を振り絞って言葉を紡いだ。

会話ができれば時間を稼げる。
悪魔は無駄だと言ったが、それは悪魔が言ってるだけのことだと彼女は思うようにした。

「ほっといてくれても、いいんじゃないかなって…思うんだけど」

”そうはいかん。その刀は、我にとって最後の不安材料だからな”

「ふあん…ざいりょう?」

”そうだ。完全にへし折っておく必要がある…さあ、渡してもらおう”

「ま、待ってよ。抜けないなら、わざわざ折る必要なんかないよね…」

”お前は、不安なことがあったらそのままにしておくのか? なんとかできると思ったのなら、なんとかしようと思うだろう…それと同じだ”

悪魔はそう言って、ゆっくりと歩を進めた。
どうやら、玲央菜から渡してもらうことを、そろそろ諦めることにしたらしい。

玲央菜の後ろで倒れている風野を一度見た後で、悪魔はゆっくりとこう言った。

”そこの忍者を無力化したことで、我には余裕ができた。だから無駄とはわかっていても、お前の時間稼ぎに付き合ってやった…しかし、結局無駄なものは無駄だったのだ”

「……」

”では、黒皇刃はもらっていくぞ”

悪魔は、腕組みに参加させていない2本の左腕を伸ばしてきた。
玲央菜はまっすぐ前を見ていたが、なぜかどこか遠くを見ていた。

そのためか、悪魔の腕が近づいてきていることに気づくのがかなり遅れた。

「あ…!」

”フフ、恐怖のあまり感覚も鈍ったか? 心配するな、殺す時はできるだけ一撃で殺してやる…そこの忍者は腸を引きずり出してやらねばならんがな”

「……」

悪魔は恐ろしいことを言うが、玲央菜の表情に変化がない。
それを不思議に思うより前に、悪魔の左手が黒皇刃に到達しようとした。

だがこの時、玲央菜は素早く体をねじる。
あと少しで触れそうだった黒皇刃が、ごくわずかにではあったが、さらに悪魔から離れた。

”…! 我が闇を受けていながら、なぜ動け…”

「今だっ!」

玲央菜が叫んだ。
その瞬間、悪魔の背後で何かが動く。

それは風を切る素早さで、悪魔の背中に鋭いものを突き立てた。

”ガァア!”

痛みに体をのけぞらせた悪魔は、何事かと背後を見る。
だがもうそこには誰もいない。

誰が自分を攻撃したのか。
悪魔がそれに気づいたのは、もう一度痛い思いをした後だった。

”グオオッ!?”

背後を見た瞬間に合わせて、右大腿部に鋭い痛みを感じる。
その場所を見た悪魔は、頭部にある赤いふたつの光を少しだけ大きくした。

”なにッ! なぜお前がここに…グオアッ!”

激痛とともに力を失い、悪魔が右ひざをつく。
攻撃した張本人は、玲央菜と風野をかばうように前に立った。

「ふう、ふう…」

「榊さん!」

玲央菜はその名を呼んだ。
その瞬間、涙が瞳にたまって少しだけ目の前がぼやけた。

そう、悪魔に手痛い攻撃を二度も食らわせたのは、39階部分で闇に倒れたはずの榊だった。
彼女がなぜか遠くを見ていたのは、悪魔の背後に彼の姿を見つけたからだった。

両手には銀色の短剣を逆手に持ち、いつでも悪魔の動きに対応できる態勢をとる。
一方、悪魔は謎の倦怠感に襲われ、右膝をついたまま立ち上がることができない。

”ち、力が…入らぬ!”

「できれば、使いたくなかった…この刃はお前の体に水銀を流し込む。その毒性については、お前もよく知っているはずだ」

”くっ、なぜだ…! お前まで、我が闇を受けて、なぜ動ける!”

「さて…それは私のあずかり知らぬこと。動けるから動ける、ただそれだけのこと」

”う、うぐっ、おのれ…!”

悪魔は声をあげながら、力を失った右脚に手でかばう。
筋肉が異常に盛り上がり、うねりねじくれたそれは異形の甲冑にも見えたが、不思議なことにそれが急速に消え始めていた。

”わ、我が脚が…!”

「背中に一撃、そしてその脚に一撃…最初の一撃で水銀は全身にまわり始めている。そういう場所を攻撃させてもらった」

”な、なんだと…!”

「その体、返してもらうぞ…本来の主に!」

榊はそう言うと、素早く前方へ飛び出す。
今度は左大腿部に向かって、水銀の短剣を振り上げた。

”させるかッ!”

悪魔の眼光が鋭く輝く。
それと同時に、悪魔を中心とした衝撃波が放たれた。

榊は、高度はなく直線的ではあったが跳躍していたため、衝撃波を踏ん張ることができない。

「くっ」

攻撃の軌道を大幅にずらされ、やわらかなカーペットの上に落ちた。
毛足の長いカーペットは落下の衝撃を吸収し、大した痛手にはならない。

榊はすぐさま、悪魔に向かって再度攻撃をしようとする。
その時だった。

”ぬぅあッ!”

悪魔が榊に向かって、2本の左手をそのまま伸ばしてくる。
ちょうど振り向きざまだったのもあり、榊はそれを避けることができない。

「ぐぅおっ!?」

殴り飛ばされた榊は、今度は壁に叩きつけられた。
打ちどころがよくなかったのか、そのまま意識を失ってしまう。

「榊さん!?」

玲央菜は声をあげるが、榊は反応しない。
彼はぐったりと倒れたまま、銀色の短剣もそばに転がった状態となっている。

「榊さ…」

”ヌガアアアアアアアアアアアッ!!”

「!?」

玲央菜が榊に声をかけようとしたところで、悪魔が急に激しく吠えた。
その様相がこれまでとはちがうことを感じた彼女は、思わずそちらを見る。

”逃すわけにはいかぬ…!”

右膝をついたまま、しかも右大腿部には人間らしい肌色が戻りつつあったが、その他の部分は依然悪魔の姿そのものだった。

低く声をあげる悪魔のまわりには、赤黒いオーラのようなものが現れている。
間違いなく手負いのはずなのだが、まがまがしさが急速に増していた。

”この時をどれだけ待ち続けたか…! 我がこの体を支配する好機を! どのような痛み、責めにも耐え…少しずつ支配の手を広げてきたのだ!”

悪魔はそう言うと、右大腿部に添えていた手を大きく振り上げる。
そして迷うことなく、そこへ指先を突き込んだ。

”ヌゥアッ!”

自傷し、その痛みに声をあげる。
指を引き抜くと、その傷口からわずかに銀色の液体が流れ出てきた。

”水銀さえ外に出してしまえば…我の体は元に戻る! あとはこのまま時を待てば、力も完全なものへと戻る…!”

「……」

玲央菜は、半ば呆然とした顔で悪魔を見ていた。
自らの体を傷つけてまで生きようとする姿を見て、その場から動くことができなかった。

そして動けたとしても、風野や榊を置いて逃げることはできなかった。
しかしだからといって、この状況を好転させる方法も思いつかない。

だが、悪魔のこの言葉に、我に返ることはできた。

”そうか…我が力が抑え込まれているのは…我の中にまだあやつが残っているからか”

「…!」

”どこまでも邪魔をする…! すぐにでも消し去らねばならん……!”

いまいましげに悪魔はつぶやき、右脚を引きずりながら歩き始めた。
その顔はもう玲央菜を見ておらず、榊や風野も見ていない。

見ている先は、玄関のある方向だった。
悪魔はそこへ向かって歩き始めたのだ。

ベランダの方へ行かないのは、巨大化した悪魔の手ではサッシ戸のカギを開けられないのと、ガラスが超強化ガラスであることを知っているためだろう。

玄関から普通に出ていった方が、傷ついた今の状況では余計に手間がかからずにすむと考えたのかもしれない。

「くっ…!」

玲央菜は黒皇刃を抱いたまま立ち上がる。
その動きを悪魔は感じているはずだが、もう彼女の方を見ない。

抜けない黒皇刃は脅威になり得ず、ただの少女である玲央菜もまたそれは同じだと悪魔は判断したのだ。
悪魔にとっての最優先事項は、この家からの脱出に切り替わっていた。

だからか、玲央菜に向けられた悪魔の言葉には、もう人間への侮蔑も、敵意さえも感じられなかった。

”そのままじっとしていろ…我はここを出ていく。我は自由になる…邪魔をしなければ、殺しはしない”

「……う、うっ…」

玲央菜は、胸の奥がちりちりと痛むのを感じる。
悪魔は彼女の前を、今まさに通り過ぎようとしている。

こちらが何もしなければ、向こうも何もしないだろう。
悪魔からはそういう雰囲気が漂っていたし、それだけ危険な状況なのだろうというのは玲央菜もなんとなく感じた。

だが。

「…消し去る、って…どうするの」

”知れたこと。殺すのだ”

「ボクが、それはイヤだと言ったら?」

”我がお前の言葉を聞く義理はない”

「じゃあ、ボクが…」

玲央菜は、胸に抱いていた黒皇刃の柄を両手に持つ。
鞘に収められたままの刀が、その先端が、悪魔の方を向いた。

それに気づいたのか、悪魔がゆっくりと彼女を見る。
彼女が叫んだのは、それとほぼ同時だった。

「こうやって邪魔をしたら!?」

黒皇刃を振り上げ、悪魔に向かって振り下ろす。
鞘は鈍器となり、敵を打ち据える武器へと変わった。

しかし。

”…言ったはずだ。邪魔をしなければ殺さないと”

風野や榊でさえ倒した悪魔に向かって、剣の心得がない玲央菜が攻撃を仕掛けるなど、無謀以外の何物でもなかった。

”それは要するに、邪魔をすれば殺すということだ!”

悪魔は簡単に、玲央菜の攻撃を左手で受け止める。
それと入れ違いに、別の左手が彼女に向かって伸びた。

その先端は、槍のようにとがる。

「あ…」

玲央菜は、人並みの動体視力しか持っていない。
だがなぜか、その時だけは猛スピードで迫る「悪魔の槍」が見えた。

(…ボク、失敗したかも)

そう思った直後。
彼女の足元に、真っ赤な飛沫が花のように咲いた。


>episode31へ続く

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