【本編】episode3 制限時間
episode3 制限時間
「くっ…!」
玲央菜は、自らの涙に濡れた枕から顔を上げた。
目元は赤くはれているが、その表情は負けん気にあふれている。
「ボクは、悲しくて泣いてるんじゃないぞ…!」
小さく、しかし鋭くつぶやいて、突っ伏していたベッドから上体を起こす。
そしてくるりと振り返り、ベッドの近くにあるクローゼットへと近づいた。
それを力強く開けると、すかすかな中身が見える。
彼女は一度そこから離れ、部屋の照明をつけてからまた戻ってきた。
「……」
クローゼットの中には、彼女が着ているものと同じ制服、つまり替えの制服が1着ともうひとつ…見慣れない服が1着ある。
それは、黒と白、そしてシンプルなデザインで彩られたメイド服だった。
彼女はそれを見つめて、また小さく、しかし決意のこもった声でつぶやく。
「がんばるって決めたんだ…負けるもんか」
そしてゆっくりとうなずいた。
目元にもう涙はなく、瞳の中には炎にも似た光がこうこうと輝いていた。
…夕食、そして玲央菜が宿題を終わらせた後…
「榊さん」
「…来ましたか」
玲央菜の声を聞いて、榊はすぐに彼女の方を見る。
彼はちょうど、天馬と談笑しているところだった。
ということは、天馬も当然ながら彼女の方を見ることになる。
「おぉ~…」
彼は驚いた顔で、彼女のメイド服姿を見た。
そしてすぐさま感想を口にする。
「いいねえ、いやーかわいい」
天馬の目は、玲央菜の上から下まで一度素早く往復した。
その後でもう一度、上から下までじっくりと眺めるという動きをとった。
メイド服は黒いワンピースの上に白いエプロンが重なったような形であり、派手さを抑えた伝統的なデザインのものだった。
だが野暮ったく見えることはなく、随所に散りばめられたフリルと、目立たない場所にさりげなくあしらわれたレースが、奥ゆかしさを演出することに強く寄与していた。
「あ…」
天馬の遠慮のない視線に、玲央菜は顔を赤くしてとまどう。
だが、彼女は朝のように、彼にそれをやめてほしいとは言わなかった。
かわりに深く頭を下げる。
「こ、このたび、メイドとして働かせていただきます、柊 玲央菜と申します。なにぶん不慣れなもので、ご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「はーい、よろしくね~」
「メイドが主人に向かって『迷惑をかけるがよろしく』とは何事ですか」
玲央菜の言葉に、天馬は軽く笑顔でこたえたのだが、榊はそうではなかった。
あいさつ早々、玲央菜の体は緊張で固まる。
「も、申し訳ありません」
「天馬さまも、あまり彼女を甘やかさぬよう」
頭を下げる玲央菜を無視して、榊は天馬にちくりと言った。
言われた天馬は苦笑しつつ、「気をつけるよ」と彼に返す。
その言葉を聞いた後で、榊はちらりと玲央菜を見た。
その後で天馬に向き直る。
「では、新人を指導して参ります」
「ああ、よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
榊はそう言って頭を下げた。
やがて姿勢を戻し、緊張した表情の玲央菜に言う。
「では行きましょう」
「は、はい」
榊が先導し、玲央菜は彼についていった。
そんなふたりの様子を、天馬は笑顔で見つめている。
「いやー初々しくていいねぇ…キャピキャピなメイドさんもいいけど、本物もいいな。ふふふ」
満足気につぶやいた彼はやがて、またコーヒーを飲み始める。
視線をテーブル上のノートパソコンへと戻し、カップを置いた後で指をキーボード上で躍らせるのだった。
「…あなたには、家事全般をやってもらうことになりますが…」
「はい」
「まずは掃除からやっていきましょうか」
榊はそう言って、トイレの前で立ち止まった。
玲央菜はすぐに察して、彼に言う。
「トイレ掃除ですか」
「そうです。あなたには、ここを5分で掃除できるようになってもらいます」
「5分…」
榊の言葉に、玲央菜は神妙な面持ちになる。
だが、即座にできないとは思わなかった。
できるだけ素早く、しかしキレイにすればいいのだと考え、頭の中でそれを試行してみる。
と、榊から声をかけられた。
「…早く開けなさい」
「あ」
脳内試行に夢中になっていた彼女は、そう言われてから慌ててトイレのドアを開ける。
ここで榊は、彼女の後ろにさがった。
ドアのすぐ向こうは手洗い場だった。
大きな鏡と銀色の蛇口、他の場所もぴかぴかに磨き上げられている。
玲央菜は、ここも当然掃除すべき場所だろうと思い、榊にこう尋ねた。
「ここは何分でやればいいんですか?」
「柊 玲央菜」
「はい?」
急にフルネームで呼ばれ、玲央菜は驚く。
そんな彼女に、榊はこう言った。
「私の話を聞いていませんでしたか?」
「え?」
榊の言葉の意味がわからず、玲央菜は後ろにいる彼の方へと振り返る。
そしてこう言った。
「いえ、話は聞いていました。トイレは5分で掃除するんですよね? それで、ここは何分で掃除すればいいのかなって思って」
「…話を聞いていなかったわけではなく、内容を理解していなかったということですね。いいでしょう」
榊は少しあきれながらうなずいてみせた。
彼はすっと彼女のそばを通りすぎ、奥にある個室のドアを開ける。
「…?」
不思議そうに首をかしげる玲央菜の目に、ドアの向こう側にある白い便器が見えた。
こちらもぴかぴかに磨き上げられており、壁のタイルには黒い点ひとつ存在しない。
榊は、個室のドアを最大に開き、留め具で固定してから玲央菜にこう言った。
「いいですか、柊 玲央菜。よく聞きなさい」
「は、はい」
玲央菜は気をつけの体勢になり、榊へと視線を移す。
それとほぼ同時に、彼はこう言った。
「5分というのは、ここ全体を掃除し終わるまでの時間です」
「…え」
「あなたはどうやら便器だけを5分で仕上げればいいと思っていたようですが、そんなことでは家事が終わるまでに日が暮れてしまいます。この部屋全体を、5分で掃除し磨き上げるのです」
「えええええええ!?」
それは、玲央菜が予想だにしない言葉だった。
彼女はまさに、便器だけを5分で仕上げればいいと考えていたのだ。
だが榊は彼女の驚きなどまったく気にせず、一度手洗い場に戻ってくる。
そして洗面台の前でしゃがんだ。
「掃除用具はここにあります」
榊はそう言って、洗面台の下を開ける。
そこには洗剤と小さなブラシなど、掃除用具がバケツに入れてまとめられている。
「え? あ、は、はい」
驚いている間に話が進んでいるので、玲央菜は慌ててそちらを見た。
そして榊は、彼女が洗面台の下を見たと感じた瞬間、こう言い放った。
「では、始め」
「え、ちょっと!? そんないきなり!??」
「掃除にいきなりも何もありません。制限時間は5分です」
「わ、わかりました!」
とにかくやるしかないと、玲央菜は急いで洗面台の前でしゃがんだ。
そして掃除用具を取り出し、バケツを洗面台に置こうとする。
「待ちなさい!」
「はい!?」
榊の鋭い声に、玲央菜は動きを止めた。
かろうじて目だけで彼を見ると、どうやら彼は怒っているようだ。
「その洗面台は、天馬さま含めお客さまがお使いになるものです! バケツなどを無理やり突っ込むものではありません!」
「あ、は、はい…でも、バケツをこの中に入れてしまった方が、お水ためやすいかなって思って…」
「言い訳は必要ありません。あなたに必要なのは『ではどうするか?』を考える習慣です」
「『ではどうするか』…?」
「バケツを直接洗面台に入れることはできない。『ではどうやって水をバケツにためるのか?』…いやそもそも、『水をバケツにためる必要があるのか?』」
「えっ?」
「バケツをよく見なさい」
「バケツ…」
榊に言われて玲央菜はバケツを見る。
だが、特に変わったところはないように見える。
「…?」
「気づきませんか? このバケツに水をためようとしてしまうと、『水がたまるまで待たなければならない』のです」
「それは…そうですよね」
「バケツに水がたまるまでどれほど時間がかかるでしょうか。10秒? 20秒? 5分という時間制限の中で、その時間はとても長いように思いませんか?」
「あ、思います。でも、それじゃあどうやってトイレ掃除を…」
「『ではどうするか』です。もう1分たちそうですよ」
「えぇ!? そ、そんなこと言われても、まずどうすればいいか…」
玲央菜は困惑しながらも、バケツの中身と洗面台の下をもう一度見た。
バケツの中にはトイレ用洗剤と小さなブラシが入っているだけで、洗面台の下には替えのトイレットペーパーや雑巾らしきものが置かれているだけである。
学校の掃除で使うようなデッキブラシや、便器を掃除するタワシつきのブラシはない。
「…ん?」
そのうち、彼女の目は雑巾に向かった。
厚手のものがいくつも置かれているが、どうやら3種類あるようだ。
「はじっこに、刺繍っぽいのが入ってる…」
雑巾は、無地のもの、四隅に赤い糸で縫い目があしらわれているもの、黒い糸であしらわれているものの3種類があった。
ストックもやけに多く、雑巾だけで壁ができているありさまである。
「…え、まさか…」
玲央菜は気づき、後ろにいる榊の方へと顔を向けた。
榊はその視線に、ゆっくりとしたうなずきで返した。
「ここ、全部拭き掃除…なんですか…!?」
「そうです」
「それでトイレ全部を5分…?」
「そうです。しかも、当然ですが美しく磨き上げなければなりません」
「えぇえ…!?」
玲央菜は、体から力が抜けるのを感じた。
天馬の家のトイレは、決して狭くない。
手洗い場があり、その奥に個室があるタイプで、しかもそれぞれが家庭用トイレの規模を超えている。
何も知らない人間を目隠ししてここに連れてくれば、まず間違いなくおしゃれなカフェのトイレだと勘違いするだろう。
それだけの広さと美しさがそこにはあった。
そんな広さを持つトイレをすべて拭き上げ、しかも5分で磨き上げるところまですませるなど、玲央菜にはもはや人間技とは思えなかった。
「…あと2分」
そして榊は、驚愕する彼女をよそに、無情なカウントダウンを続ける。
だがその無情さが、彼女をすぐさま我に返してくれた。
「こ、この雑巾、どういう使い分けをしてるんですか、教えてください!」
「わかりました。重要なのでよく聞いてください」
質問は予測できていたらしく、榊はすぐさま説明を開始する。
「まず、この洗面台に使って良いのは赤い縫い目の雑巾です」
「赤はここ…」
「そして黒い縫い目の雑巾は個室」
「黒は個室…の、中とか床ですか?」
「そうです。そして無地は便器に使用します」
「ブラシはいつ使うんですか?」
「それは便器内の汚れがひどいときに使います。今は便器が汚れを落とすタイプなので、ほとんど使うことはありません」
「わかりました! えっと…じゃあまず、ここを掃除します!」
「その理由は?」
「えっ?」
いきなり問われ、作業を始めようとしていた玲央菜の動きが止まる。
だがその答えはすぐに出た。
「ここが一番キレイだからです!」
「いいでしょう。汚れた場所から始めてしまうと、その汚れを移してしまうというわけですね。いい心がけです」
「ありがとうございます!」
「ですが残りは1分です。雑巾の縫い目も間違わぬよう」
「はい! …あ、えっと、雑巾の水って…」
「洗面台の水を使っても大丈夫です。無地のものも、下から出した直後であれば問題ありません」
「わかりました!」
玲央菜は真剣な表情でそう言い、赤い縫い目の雑巾を手に取った。
そして洗面台の水で濡らし、一度洗剤のラベルを見てから、なぜかそれを使わずに水だけで洗面台を拭き始めた。
「…ほう…」
榊は声を漏らす。
彼女が洗剤の注意書きを確認し、洗面台を傷つけないように水だけで拭き始めたことに彼も気づいていた。
その点については感心したのだが、やはり掃除の開始が遅すぎたようで…
「時間です。作業を終了してください」
「え…」
「手を止めなさい、柊 玲央菜」
「は、はい」
まだ洗面台を拭き始めたばかりだったのだが、玲央菜は手を止めなくてはならなかった。
そして榊はそんな彼女に言い放つ。
「本日のあなたの作業はこれにて終了です。あとは自由に過ごすといいでしょう」
「え…!」
玲央菜は思わず榊を見た。
そこにはありありと不満の色が浮かんでいる。
「ま、まだ始めたばかりなんですけど…」
「トイレはこの家にいる者だれもが使うものです。ゆったりのんびりやって、それを邪魔してはいけません。特に、天馬さまに不自由さを感じさせてはならないのです」
「でも、まだ掃除の途中…」
「問題ありません。あとは私がやっておきます」
「そんな…!」
「あなたは自室に戻り、その服からあなた自身の服へ着替えなさい。天馬さまの言いつけなしに、その服を着ることは許しません」
「……」
「そしてその服を脱いだなら、この家の家事をやることは私の誇りにおいて許しません。わかりましたか?」
「そんな…」
「わかりましたか?」
「…わかり…ました」
玲央菜はそう言うしかなかった。
胸の中に、とてつもない敗北感が渦巻いた。
だがそれを晴らす手段はない。
そして榊は、彼女に仕事をさせる前にすでにこう言っている。
”もし、それでも働くというのであれば、あなたは毎日、私の言葉で悔しさを感じることになるでしょう”
それを、玲央菜も聞いた。
それでも働きたいと言うまでに、心の中に巻き起こった恐怖…それには、この言葉も含まれていた。
そのはずだった。
彼女はそう思っていた。
「…く…」
だがそれは、彼女の想像でしかなかった。
実際に突き放されてみると、とても、とても悔しい。
言葉で表現して、それで感じられる何倍もの悔しさを、彼女は今感じている。
しかもそれは、もうどうしようもない。
榊はもう、トイレ掃除を始めている。
その背中は、彼女に「もうオマエは必要ない」と言っているようでもある。
それもまた彼女の想像でしかないが、そう言われているような気がしてならなかった。
「……」
榊の動きはとても速く、慣れているのだから当然かもしれないが、まったく迷いがなかった。
赤い縫い目の雑巾で洗面台とその周囲を拭く勢いに押され、玲央菜は徐々にトイレから追い出されていく。
「……くっ…!」
彼女は唇を噛み、瞳に涙をためてその場から去った。
途中で様子を見に来たらしい天馬とすれちがったが、彼女は彼の方を見もしなかった。
「……おやおや」
それを苦笑しながら見送った天馬は、トイレへと向かう。
作業をしている榊の背中に、軽く声をかけた。
「お嬢ちゃんはどんな感じ?」
「悪くはない…と思いたいところですな」
榊は、天馬の方を見ずにそう答えた。
天馬はその回答に小さく笑う。
「思いたい、だなんて榊らしくないね。ヒトコトヌシかってくらいに断言するお前がさ」
「『良いことも悪いことも一言のもとに言い放つ』…その力強さを表した神ですか。恐れ多いことです」
「…やっぱりお前、楽しそうだよね?」
「私はただ、仕事をしているだけでございます」
「うーん、やっぱり意外だ。お前がそんなふうにトボケてみせるなんて」
「天馬さまに対してとぼけるなど、とんでもないことです」
「……」
「…何か?」
「いーや。んじゃ俺はちょっと作業して寝るから、あとは頼むよ」
「もうすぐ新月ですからな…かしこまりました」
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
榊は、おやすみのあいさつをするときだけ、掃除を中断して天馬に頭を下げた。
天馬がトイレ前から去ると、また掃除を再開させる。
その掃除の音を背中越しに聞きながら、天馬は苦笑した。
「俺にトボケてみせるのはとんでもない…そう言っときながら、『トボケてない』とは言わないんだな? ふふっ…」
天馬はリビングに戻り、一度玲央菜が戻ったであろう部屋の方角を見る。
だがそちらへ向かうことはせず、また別の方向へと歩いていった。
一方、部屋に戻っていた玲央菜は、またベッドに突っ伏している。
「くそっ…くそっ、くそぉっ!」
枕に顔をうずめ、右手でベッドを荒々しく殴っている。
彼女の中で渦巻くものが、悔しさを怒りへと変えていた。
「できるようになってやる…5分だって? 3分でできるようになってやるっ! くそぉっ!」
悔しさと、怒りをはらんだ涙は止まらない。
しばらくベッドで暴れている彼女だったが、やがて泣き疲れて眠ってしまうのだった。
>episode4へ続く
→目次へ
「くっ…!」
玲央菜は、自らの涙に濡れた枕から顔を上げた。
目元は赤くはれているが、その表情は負けん気にあふれている。
「ボクは、悲しくて泣いてるんじゃないぞ…!」
小さく、しかし鋭くつぶやいて、突っ伏していたベッドから上体を起こす。
そしてくるりと振り返り、ベッドの近くにあるクローゼットへと近づいた。
それを力強く開けると、すかすかな中身が見える。
彼女は一度そこから離れ、部屋の照明をつけてからまた戻ってきた。
「……」
クローゼットの中には、彼女が着ているものと同じ制服、つまり替えの制服が1着ともうひとつ…見慣れない服が1着ある。
それは、黒と白、そしてシンプルなデザインで彩られたメイド服だった。
彼女はそれを見つめて、また小さく、しかし決意のこもった声でつぶやく。
「がんばるって決めたんだ…負けるもんか」
そしてゆっくりとうなずいた。
目元にもう涙はなく、瞳の中には炎にも似た光がこうこうと輝いていた。
…夕食、そして玲央菜が宿題を終わらせた後…
「榊さん」
「…来ましたか」
玲央菜の声を聞いて、榊はすぐに彼女の方を見る。
彼はちょうど、天馬と談笑しているところだった。
ということは、天馬も当然ながら彼女の方を見ることになる。
「おぉ~…」
彼は驚いた顔で、彼女のメイド服姿を見た。
そしてすぐさま感想を口にする。
「いいねえ、いやーかわいい」
天馬の目は、玲央菜の上から下まで一度素早く往復した。
その後でもう一度、上から下までじっくりと眺めるという動きをとった。
メイド服は黒いワンピースの上に白いエプロンが重なったような形であり、派手さを抑えた伝統的なデザインのものだった。
だが野暮ったく見えることはなく、随所に散りばめられたフリルと、目立たない場所にさりげなくあしらわれたレースが、奥ゆかしさを演出することに強く寄与していた。
「あ…」
天馬の遠慮のない視線に、玲央菜は顔を赤くしてとまどう。
だが、彼女は朝のように、彼にそれをやめてほしいとは言わなかった。
かわりに深く頭を下げる。
「こ、このたび、メイドとして働かせていただきます、柊 玲央菜と申します。なにぶん不慣れなもので、ご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「はーい、よろしくね~」
「メイドが主人に向かって『迷惑をかけるがよろしく』とは何事ですか」
玲央菜の言葉に、天馬は軽く笑顔でこたえたのだが、榊はそうではなかった。
あいさつ早々、玲央菜の体は緊張で固まる。
「も、申し訳ありません」
「天馬さまも、あまり彼女を甘やかさぬよう」
頭を下げる玲央菜を無視して、榊は天馬にちくりと言った。
言われた天馬は苦笑しつつ、「気をつけるよ」と彼に返す。
その言葉を聞いた後で、榊はちらりと玲央菜を見た。
その後で天馬に向き直る。
「では、新人を指導して参ります」
「ああ、よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
榊はそう言って頭を下げた。
やがて姿勢を戻し、緊張した表情の玲央菜に言う。
「では行きましょう」
「は、はい」
榊が先導し、玲央菜は彼についていった。
そんなふたりの様子を、天馬は笑顔で見つめている。
「いやー初々しくていいねぇ…キャピキャピなメイドさんもいいけど、本物もいいな。ふふふ」
満足気につぶやいた彼はやがて、またコーヒーを飲み始める。
視線をテーブル上のノートパソコンへと戻し、カップを置いた後で指をキーボード上で躍らせるのだった。
「…あなたには、家事全般をやってもらうことになりますが…」
「はい」
「まずは掃除からやっていきましょうか」
榊はそう言って、トイレの前で立ち止まった。
玲央菜はすぐに察して、彼に言う。
「トイレ掃除ですか」
「そうです。あなたには、ここを5分で掃除できるようになってもらいます」
「5分…」
榊の言葉に、玲央菜は神妙な面持ちになる。
だが、即座にできないとは思わなかった。
できるだけ素早く、しかしキレイにすればいいのだと考え、頭の中でそれを試行してみる。
と、榊から声をかけられた。
「…早く開けなさい」
「あ」
脳内試行に夢中になっていた彼女は、そう言われてから慌ててトイレのドアを開ける。
ここで榊は、彼女の後ろにさがった。
ドアのすぐ向こうは手洗い場だった。
大きな鏡と銀色の蛇口、他の場所もぴかぴかに磨き上げられている。
玲央菜は、ここも当然掃除すべき場所だろうと思い、榊にこう尋ねた。
「ここは何分でやればいいんですか?」
「柊 玲央菜」
「はい?」
急にフルネームで呼ばれ、玲央菜は驚く。
そんな彼女に、榊はこう言った。
「私の話を聞いていませんでしたか?」
「え?」
榊の言葉の意味がわからず、玲央菜は後ろにいる彼の方へと振り返る。
そしてこう言った。
「いえ、話は聞いていました。トイレは5分で掃除するんですよね? それで、ここは何分で掃除すればいいのかなって思って」
「…話を聞いていなかったわけではなく、内容を理解していなかったということですね。いいでしょう」
榊は少しあきれながらうなずいてみせた。
彼はすっと彼女のそばを通りすぎ、奥にある個室のドアを開ける。
「…?」
不思議そうに首をかしげる玲央菜の目に、ドアの向こう側にある白い便器が見えた。
こちらもぴかぴかに磨き上げられており、壁のタイルには黒い点ひとつ存在しない。
榊は、個室のドアを最大に開き、留め具で固定してから玲央菜にこう言った。
「いいですか、柊 玲央菜。よく聞きなさい」
「は、はい」
玲央菜は気をつけの体勢になり、榊へと視線を移す。
それとほぼ同時に、彼はこう言った。
「5分というのは、ここ全体を掃除し終わるまでの時間です」
「…え」
「あなたはどうやら便器だけを5分で仕上げればいいと思っていたようですが、そんなことでは家事が終わるまでに日が暮れてしまいます。この部屋全体を、5分で掃除し磨き上げるのです」
「えええええええ!?」
それは、玲央菜が予想だにしない言葉だった。
彼女はまさに、便器だけを5分で仕上げればいいと考えていたのだ。
だが榊は彼女の驚きなどまったく気にせず、一度手洗い場に戻ってくる。
そして洗面台の前でしゃがんだ。
「掃除用具はここにあります」
榊はそう言って、洗面台の下を開ける。
そこには洗剤と小さなブラシなど、掃除用具がバケツに入れてまとめられている。
「え? あ、は、はい」
驚いている間に話が進んでいるので、玲央菜は慌ててそちらを見た。
そして榊は、彼女が洗面台の下を見たと感じた瞬間、こう言い放った。
「では、始め」
「え、ちょっと!? そんないきなり!??」
「掃除にいきなりも何もありません。制限時間は5分です」
「わ、わかりました!」
とにかくやるしかないと、玲央菜は急いで洗面台の前でしゃがんだ。
そして掃除用具を取り出し、バケツを洗面台に置こうとする。
「待ちなさい!」
「はい!?」
榊の鋭い声に、玲央菜は動きを止めた。
かろうじて目だけで彼を見ると、どうやら彼は怒っているようだ。
「その洗面台は、天馬さま含めお客さまがお使いになるものです! バケツなどを無理やり突っ込むものではありません!」
「あ、は、はい…でも、バケツをこの中に入れてしまった方が、お水ためやすいかなって思って…」
「言い訳は必要ありません。あなたに必要なのは『ではどうするか?』を考える習慣です」
「『ではどうするか』…?」
「バケツを直接洗面台に入れることはできない。『ではどうやって水をバケツにためるのか?』…いやそもそも、『水をバケツにためる必要があるのか?』」
「えっ?」
「バケツをよく見なさい」
「バケツ…」
榊に言われて玲央菜はバケツを見る。
だが、特に変わったところはないように見える。
「…?」
「気づきませんか? このバケツに水をためようとしてしまうと、『水がたまるまで待たなければならない』のです」
「それは…そうですよね」
「バケツに水がたまるまでどれほど時間がかかるでしょうか。10秒? 20秒? 5分という時間制限の中で、その時間はとても長いように思いませんか?」
「あ、思います。でも、それじゃあどうやってトイレ掃除を…」
「『ではどうするか』です。もう1分たちそうですよ」
「えぇ!? そ、そんなこと言われても、まずどうすればいいか…」
玲央菜は困惑しながらも、バケツの中身と洗面台の下をもう一度見た。
バケツの中にはトイレ用洗剤と小さなブラシが入っているだけで、洗面台の下には替えのトイレットペーパーや雑巾らしきものが置かれているだけである。
学校の掃除で使うようなデッキブラシや、便器を掃除するタワシつきのブラシはない。
「…ん?」
そのうち、彼女の目は雑巾に向かった。
厚手のものがいくつも置かれているが、どうやら3種類あるようだ。
「はじっこに、刺繍っぽいのが入ってる…」
雑巾は、無地のもの、四隅に赤い糸で縫い目があしらわれているもの、黒い糸であしらわれているものの3種類があった。
ストックもやけに多く、雑巾だけで壁ができているありさまである。
「…え、まさか…」
玲央菜は気づき、後ろにいる榊の方へと顔を向けた。
榊はその視線に、ゆっくりとしたうなずきで返した。
「ここ、全部拭き掃除…なんですか…!?」
「そうです」
「それでトイレ全部を5分…?」
「そうです。しかも、当然ですが美しく磨き上げなければなりません」
「えぇえ…!?」
玲央菜は、体から力が抜けるのを感じた。
天馬の家のトイレは、決して狭くない。
手洗い場があり、その奥に個室があるタイプで、しかもそれぞれが家庭用トイレの規模を超えている。
何も知らない人間を目隠ししてここに連れてくれば、まず間違いなくおしゃれなカフェのトイレだと勘違いするだろう。
それだけの広さと美しさがそこにはあった。
そんな広さを持つトイレをすべて拭き上げ、しかも5分で磨き上げるところまですませるなど、玲央菜にはもはや人間技とは思えなかった。
「…あと2分」
そして榊は、驚愕する彼女をよそに、無情なカウントダウンを続ける。
だがその無情さが、彼女をすぐさま我に返してくれた。
「こ、この雑巾、どういう使い分けをしてるんですか、教えてください!」
「わかりました。重要なのでよく聞いてください」
質問は予測できていたらしく、榊はすぐさま説明を開始する。
「まず、この洗面台に使って良いのは赤い縫い目の雑巾です」
「赤はここ…」
「そして黒い縫い目の雑巾は個室」
「黒は個室…の、中とか床ですか?」
「そうです。そして無地は便器に使用します」
「ブラシはいつ使うんですか?」
「それは便器内の汚れがひどいときに使います。今は便器が汚れを落とすタイプなので、ほとんど使うことはありません」
「わかりました! えっと…じゃあまず、ここを掃除します!」
「その理由は?」
「えっ?」
いきなり問われ、作業を始めようとしていた玲央菜の動きが止まる。
だがその答えはすぐに出た。
「ここが一番キレイだからです!」
「いいでしょう。汚れた場所から始めてしまうと、その汚れを移してしまうというわけですね。いい心がけです」
「ありがとうございます!」
「ですが残りは1分です。雑巾の縫い目も間違わぬよう」
「はい! …あ、えっと、雑巾の水って…」
「洗面台の水を使っても大丈夫です。無地のものも、下から出した直後であれば問題ありません」
「わかりました!」
玲央菜は真剣な表情でそう言い、赤い縫い目の雑巾を手に取った。
そして洗面台の水で濡らし、一度洗剤のラベルを見てから、なぜかそれを使わずに水だけで洗面台を拭き始めた。
「…ほう…」
榊は声を漏らす。
彼女が洗剤の注意書きを確認し、洗面台を傷つけないように水だけで拭き始めたことに彼も気づいていた。
その点については感心したのだが、やはり掃除の開始が遅すぎたようで…
「時間です。作業を終了してください」
「え…」
「手を止めなさい、柊 玲央菜」
「は、はい」
まだ洗面台を拭き始めたばかりだったのだが、玲央菜は手を止めなくてはならなかった。
そして榊はそんな彼女に言い放つ。
「本日のあなたの作業はこれにて終了です。あとは自由に過ごすといいでしょう」
「え…!」
玲央菜は思わず榊を見た。
そこにはありありと不満の色が浮かんでいる。
「ま、まだ始めたばかりなんですけど…」
「トイレはこの家にいる者だれもが使うものです。ゆったりのんびりやって、それを邪魔してはいけません。特に、天馬さまに不自由さを感じさせてはならないのです」
「でも、まだ掃除の途中…」
「問題ありません。あとは私がやっておきます」
「そんな…!」
「あなたは自室に戻り、その服からあなた自身の服へ着替えなさい。天馬さまの言いつけなしに、その服を着ることは許しません」
「……」
「そしてその服を脱いだなら、この家の家事をやることは私の誇りにおいて許しません。わかりましたか?」
「そんな…」
「わかりましたか?」
「…わかり…ました」
玲央菜はそう言うしかなかった。
胸の中に、とてつもない敗北感が渦巻いた。
だがそれを晴らす手段はない。
そして榊は、彼女に仕事をさせる前にすでにこう言っている。
”もし、それでも働くというのであれば、あなたは毎日、私の言葉で悔しさを感じることになるでしょう”
それを、玲央菜も聞いた。
それでも働きたいと言うまでに、心の中に巻き起こった恐怖…それには、この言葉も含まれていた。
そのはずだった。
彼女はそう思っていた。
「…く…」
だがそれは、彼女の想像でしかなかった。
実際に突き放されてみると、とても、とても悔しい。
言葉で表現して、それで感じられる何倍もの悔しさを、彼女は今感じている。
しかもそれは、もうどうしようもない。
榊はもう、トイレ掃除を始めている。
その背中は、彼女に「もうオマエは必要ない」と言っているようでもある。
それもまた彼女の想像でしかないが、そう言われているような気がしてならなかった。
「……」
榊の動きはとても速く、慣れているのだから当然かもしれないが、まったく迷いがなかった。
赤い縫い目の雑巾で洗面台とその周囲を拭く勢いに押され、玲央菜は徐々にトイレから追い出されていく。
「……くっ…!」
彼女は唇を噛み、瞳に涙をためてその場から去った。
途中で様子を見に来たらしい天馬とすれちがったが、彼女は彼の方を見もしなかった。
「……おやおや」
それを苦笑しながら見送った天馬は、トイレへと向かう。
作業をしている榊の背中に、軽く声をかけた。
「お嬢ちゃんはどんな感じ?」
「悪くはない…と思いたいところですな」
榊は、天馬の方を見ずにそう答えた。
天馬はその回答に小さく笑う。
「思いたい、だなんて榊らしくないね。ヒトコトヌシかってくらいに断言するお前がさ」
「『良いことも悪いことも一言のもとに言い放つ』…その力強さを表した神ですか。恐れ多いことです」
「…やっぱりお前、楽しそうだよね?」
「私はただ、仕事をしているだけでございます」
「うーん、やっぱり意外だ。お前がそんなふうにトボケてみせるなんて」
「天馬さまに対してとぼけるなど、とんでもないことです」
「……」
「…何か?」
「いーや。んじゃ俺はちょっと作業して寝るから、あとは頼むよ」
「もうすぐ新月ですからな…かしこまりました」
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
榊は、おやすみのあいさつをするときだけ、掃除を中断して天馬に頭を下げた。
天馬がトイレ前から去ると、また掃除を再開させる。
その掃除の音を背中越しに聞きながら、天馬は苦笑した。
「俺にトボケてみせるのはとんでもない…そう言っときながら、『トボケてない』とは言わないんだな? ふふっ…」
天馬はリビングに戻り、一度玲央菜が戻ったであろう部屋の方角を見る。
だがそちらへ向かうことはせず、また別の方向へと歩いていった。
一方、部屋に戻っていた玲央菜は、またベッドに突っ伏している。
「くそっ…くそっ、くそぉっ!」
枕に顔をうずめ、右手でベッドを荒々しく殴っている。
彼女の中で渦巻くものが、悔しさを怒りへと変えていた。
「できるようになってやる…5分だって? 3分でできるようになってやるっ! くそぉっ!」
悔しさと、怒りをはらんだ涙は止まらない。
しばらくベッドで暴れている彼女だったが、やがて泣き疲れて眠ってしまうのだった。
>episode4へ続く
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