56、「半島の春」に映し出された朝鮮映画界 | 「日韓次世代映画祭」「下川正晴研究室」「大分まちなかTV」ブログ

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下川正晴(大分県立芸術文化短大教授、shimokawa502@gmail.com 携帯電話090-9796-1720、元毎日新聞論説委員、ソウル支局長)。日韓次世代映画祭は2008年開始。「大分まちなかTV」は、学生と商店街のコラボ放送局です。

NPO!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログNPO!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログNPO!「日韓次世代交流映画祭」公式ブログさて、今回から新しい章に入ります。パク・ヒョンヒ「文芸峰と金信哉」では第4章「朝映時代/宣伝映画の「花」に(1943~1945)」の部分です。

その最初に取り上げる映画が、イ・ビョンイル監督の「半島の春」(1941)です。この映画は、朝鮮映画界の葛藤を描いた作品であり、当時の時代相を知る上でも貴重な作品になっています。中国電影資料館の倉庫からフィルムが発見され、韓国映像資料院からDVD「発掘された過去」の1本としてリリースされたため、手軽に見ることが出来るようになりました。(しかし、このDVDもすでに売れ切れてしまいました)

この映画の概略を例によって、キム・ジョンウォン先生の解説で見てみましょう。3年前の冬、大分市で日本で初めての「DVD発掘された過去」上映会を開いたときに、キム先生に書いてもらった解説です。

「半島の春」の一部動画が「YOU TUBE」で公開されています。リンクしておきます。

●「半島の春」1941年、李炳逸(イ・ビョンイル)監督

製作/明宝映画社 原作/金聖珉(キム・ソンミン) 脚色/咸慶鎬(カン・ギョンホ) 撮影/梁世雄(ヤン・セウン) 出演/金一海(キム・イルヘ)、金素英(キム・ソヨン)、徐月影(ソ・ウォルヨン)、白蘭(ベク・ラン)、金漢(キム・ハン)、李錦龍(イ・クムヨン)

1940年代、日帝の支配下で朝鮮映画人が体験した困難な環境と、これを克服しようとする人々の意志と愛を描いた通俗劇である。

 李英一 (金一海)は、レコード会社に勤務する新鋭作家だ。友人の映画監督許壎(徐月影)は映画社の仲間たちと同居しながら、トーキー映画「春香伝」の制作を進めている。しかし、家賃はもちろん生活費も捻出できず、映画製作も順調でない。

映画のスポンサーであるレコード会社文芸部長の韓啓洙(金漢)は、その境遇を救うべく手助けするどころか、主演の新人俳優・貞喜(金素英)にもの欲しげな視線を送るだけだ。中断した撮影を続けさせようと、英一は作曲家に支払うべき金を映画制作費に充当する。英一は公金横領の嫌疑で警察署に連行された。

しかし、彼に片思いを寄せる安羅(白蘭)の助力で釈放され、看護を受ける。実業家・朴昌植(李錦龍)が100万ウォンを投じて映画社を吸収し、映画制作の財政問題は解決する。「春香伝」は完成し、英一は許監督らの見送りを受けながら、貞喜とともに映画研修のため日本へ向かう。

この映画には「春香伝」の撮影現場と演技シーンが劇中劇の形で登場し、当時の撮影器材や設備を垣間見ることができる。主人公の英一が公金横領の容疑で拘束される危機に瀕すると、カメラは空中に急迫する雲の群れを捕らえ、不安な心理を表現する。降りしきる雨を窓からながめる貞喜、雨脚の中を歩く英一。愛の心象を対比させる典型的な通俗劇の技法も視線を引く。

「半島の春」にも例外なく、「親日」を強調する主題が現れる。映画社を設立した朴昌植は、「内鮮一体」の原則と皇国臣民の責任を演説する。この3分を越えるシーンで彼は、今日は重大時局であり、一致協力して、国民文化の進展に貢献する映画制作に邁進する、と述べる。

1910年に咸鏡南道咸興で生まれた李炳逸監督は、東京・神田にある英語専門学校を卒業した後、日活撮影所で7年間の映画修業をして韓国に戻り、「半島の春」を監督した。映画の原作は1940年度「週刊朝日」の懸賞募集小説の当選作である「半島の芸術家」である。解放後、李監督はアジア映画祭特別喜劇賞を受賞した「嫁入りする日」や「自由結婚」などを演出し、1978年に68歳で亡くなった。