朝鮮人は名実とも皇国民になることを目指した。
$かつて日本は美しかった


 明治43年(1910年)、「韓国併合ニ関スル条約」により日韓合邦が実現します。その後の朝鮮半島は莫大な投資が行われ近代化がすすめられました。餓死寸前だった朝鮮人は救われ、日本国民として日本人と同等の義務と権利が与えられました。

 朝鮮半島では兵役の義務化は行われませんでしたが、昭和13年(1938年)、初の志願兵が募集され志願者2946名中406名が合格します。

 昭和14年(1939年)  12,348名志願   613名合格
 昭和15年(1940年)  84,403名志願 3,060名合格
 昭和16年(1941年) 144,743名志願 3,208名合格
 昭和17年(1942年) 254,273名志願 4,077名合格
 昭和18年(1943年) 303,394名志願 6,300名合格


 凄い競争率です。この中には職を求めて志願した人もいるでしょうが、この頃にはちゃんとした学問が普及してきており、近代的国民意識が朝鮮人にも目覚めており、それには一等国日本国民として名実ともに認めてもらうというという熱烈な意識が芽生えていたのです。

 近代朝鮮文学の父と言われる李 光洙(イ・グァンス 日本名:香山光郎)は「朝鮮人男子も兵役の義務を終えてから初めて完全な国民になる」とし、納税、教育、兵役の義務が近代国家の国民としての義務であり、選挙と被選挙権の参政権は当然なる権利であると考えていました。兵役は男子国民にとって当たり前だった時代ですから、今のように日本は兵役がないので良かったという感覚とは全く違います。兵役が無いほうが普通の状態ではないのです。そして熱烈な朝鮮人の皇国民意識におされて志願兵制度がスタートしたのです。これには台湾人は羨ましい限りであったようです。ちなみに台湾は昭和17年(1942年)からでこの年は定員1210人に対し42万人が応募しています。翌年1008人の定員に対して60万人が応募しており、たまげますね。

「反響呼ぶ志願兵制度 忽ち(たちまち)志願兵殺到 応接に転手古舞(てんてこまい)の憲兵さん 微笑ましい朗景展開」昭和13年(1938年)1月18日大阪朝日 南鮮版
「志願兵制度に感謝の電報欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の在満同胞」昭和13年(1938年)1月22日大阪朝日 南鮮版
「志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先に志願」昭和13年(1938年)1月24日大阪朝日 南鮮版

 この熱気は男性だけでなく女性からもありました。
「聴け!この愛国の純情 ”私たちも男ならば率先軍人を志願”乙女の胸に映った志願兵制度 大邸女高普の興味ある調査」・・・本当にこれで半島人も国家の義務を持つ一人前になったのです・私も男ならば志願兵になるのにと思いました。(昭和13年(1938年)1月27日大阪朝日 北西鮮版)

 中には不合格になり失望し自殺した人までいました。
 血書を持参する志願者も居ました。
「鮮血『皇民の誓い』一家を代表して志願」昭和13年(1938年)2月9日大阪朝日 南鮮版

 こうした歴史は語られていないか、捻じ曲げられ日本の悪行のように言われていますが、この時代は帝国主義の時代であり、日本は欧米列強の脅威にさらされていました。朝鮮半島と台湾に近代化の息を吹き込み強固な国家を建設しなければなりませんでした。その中で朝鮮人が強烈な国家意識を持ち、名実とも皇国民として認めてもらえるように志願に殺到したのは自然な流れと言えるでしょう。




参考文献
 扶桑社「日本の植民地の真実」黄文雄(著)
 小学館「SAPIO」2009 9/9 『朝日新聞<南鮮版>の研究』水間政憲
 桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
 WikiPedia「李光洙」
添付画像
 京城の提灯行列_国書刊行会「望郷 朝鮮」より(PD)

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本記事は平成22年2月12日「皇国民を目指した朝鮮人」を再編集したものです。