私が今これを書いている11月30日は、水木しげるさんの命日に当たります。
水木しげるさん(本名:武良 茂=むら・しげる)はちょうど5年前の2015年11月30日に亡くなったのでした。
今ごろ、矢口高雄さんが水木プロを訪ねてきたときのことを、矢口さんと懐かしく語り合っていることでしょうか。
(前回の記事からの続きです。)
さて、「少年サンデー」編集部に原稿を預けて、夜行列車で秋田の自宅への帰路についた矢口さんは、翌日の昼過ぎに、ようやく自宅へたどり着いた。
すると、家の中からお母さんが飛び出してきて、東京から何度も何度も電話がかかってきているよ、と知らせてくれた。
電話は、もちろん、「少年サンデー」編集部からである。
矢口さんから電話をかけると、「少年サンデー」編集部は、「あなたに大型連載を頼みたい」と言ってきた。
その大型連載とは、テレビドラマとのタイアップによる時代劇画『宮本武蔵』だった。
梶原一騎さんが原作を書いて、それをもとに高橋英樹さんの主演でドラマを制作する。そのコミカライズ版の作画を、矢口さんにやってもらおうと「少年サンデー」編集部は考えていたのである。
しかし、この企画はテレビ局側の事情で立ち消えになった。
しかし、「少年サンデー」編集部はすぐに別の企画を考えた。やはり梶原一騎さんの原作で、下村湖人(しもむら・こじん)の『次郎物語』のような少年の成長物語を、矢口さんの作画で連載しようというのだ。
『おとこ道』と題されたこの作品が、矢口さんの実質的なメジャーデビュー作となった。1970年のことである。
余談だが、梶原一騎さんは翌1971年に、小島剛夕さんとのコンビで、「漫画ゴラク」に宮本武蔵が主人公の劇画『斬殺者』を発表している。
よほど宮本武蔵に未練があったのだろうか。
「サンデー」編集部は、とかく原稿が遅いことで知られる梶原さんに対し、まだ新人の矢口さんならスケジュールに余裕があるから、コンビを組ませても大丈夫だろうという考えだったようだ。
よく知られていることだが、「矢口高雄」というペンネームは、梶原さんが、当時矢口さんが住んでいた大田区矢口にちなんでつけてくれたものである。
しかし矢口さんは、デビューでいきなり週刊誌連載を任されることにかなりのプレッシャーを感じていた。
それに、梶原さんの作風も好きではなかった。
それで、この仕事は断りたいと、長井勝一さんに相談したら、大目玉を食らった。
矢口さんは、わざわざ「サンデー」編集部宛てに丁寧な断りの手紙まで書いていたのだが‥‥。
長井さんは、こんな言葉を投げかけ、矢口さんを叱り飛ばした。
(以下、「月刊漫画ガロ」1996年3月号の矢口さんの手記より引用)
「高橋さん、あなたは何を悠長なことを言ってるんだい。東京には連載をやりたくももらえないマンガ家がゴマンといるんだぜ。それを断ろうなんて、とんでもない甘ちゃんだよ。あなたは今、どんな立場にあるか考えてみろ。奥さんや、子どもさんのためにも死にものぐるいで描くしかないでしょう。」
(引用、ここまで)
これは確かに、正鵠を射ている。じっさい矢口さんは、その後プロの漫画家として生活しながら、いかに作家にとって連載の仕事を持つことが大事なことか嫌というほど思い知ったと、生前のテレビのインタビューで述べている。
連載の仕事が無いと決まった収入が得られないし、作品が本になることも無い。つまり印税をもらうのも、ある程度連載を続けたあとの話なのだ。
さらに、長井さんは、こう言って矢口さんを諭した。
(再び引用)
「梶原氏の人柄や人生観に馴染めない‥‥? そりゃああの人の風評は決して好ましいものではない。むしろダーティなイメージすらあるだろう。その点で言うならあなたは全くの無名。どんな悪名だろうと無名に勝るんだよ。世の中とはそういうもんだ。無名のあなたが、仮にも悪名だろうともそれを利用して世に出ようとしているわけだから、こんな絶好のチャンスはない。書いた手紙はこの場で破り捨てろ。この連載、なんにも言わずにやり抜け !!」
(引用、終わり)
長井さんに叱られて、矢口さんは男泣きに泣いたという。
しかし矢口さんは、長井さんを恨んだりはしなかった。そればかりか、長井さんがいなかったら自分は漫画家になっていなかったろう、と言って感謝していた。
「悪名は無名に勝る」。長井さんのこの言葉を、矢口さんは座右の銘とした。
漫画文庫『ニッポン博物誌』(2020年、山と渓谷社)
(続きます。)