おはようございます。

NDDさんの「ガイドとの対話」の続きです。


今日のけだし名言3本立て。
「この人が間違っている、良くないことだと判断することも、これもまた神性なのだ」

「風は自由なのだから、それを肌で感じる美しい時間は自由なのだ」

「大地に生きるこの人は自由ということは、この人自身が情報源だということだ」


聞いてる私が救われちゃいましたw


それではどうぞ!


ありがとうございます。
NDDさんに、伝えたいことはありますか?

「少女とメガホン」のビジョン。


(ジーナ注:少女ではないが、やたらかわEので採用)

「少女はメガホンを持って一生懸命応援している」

「生きる気力を奮い立たせよう。人生は甘美だ。もっと楽しいものだよ?悔やむことなど何一つ無かったんだ。もやもやしているね。本当は快活に生きることがとても楽しいんだよ、ということを伝えたいのだ。知って欲しいのだ。

これはね、正しいとか間違っているとかということではない」


「少女」に、なるほど~と思います。なぜなら、それが私にとって一番受け入れやすい応援だからです。

「かわいい女の子に応援されたら、頑張るしかないなぁ~」と思えます。

もし自分より年上からだったら、「昭和のお父さん」に説教されたような気分になります。
もし自分と同じくらいの年齢の人からだったら、「同級生は立派な社会人として活躍しているのに、自分は....」と落ち込みます。
もし「少年」だったら、やはり自分と同じ男性なので、その少年の行く先を勝手に想像して「男としてこの先数々の困難を乗り越えて....」なんて重~いことを考えて、気持ちが重く沈んでしまいます。

さすが、ガイド・ヘルパーさん!( ^ω^ )
参りました。ありがとうございます。



「丸められた新聞紙」のビジョン。



「新聞紙は、子供がチャンバラ遊びの剣として使うときのように、1本の棒のようにくるくると丸められている」

「あなたの態度に間違っている、間違っていたというものは一切ない。「一切」だ。この人が間違っている、良くないことだと判断することも、これもまた神性なのだ。それはとりもなおさずこの人自身のことだ。この人は神なのだ。

この人がしているレッテル張りも、私たち(ガイド・ヘルパー)も愛おしんでいる。だから、まず自分自身を受け入れ、愛して欲しいな」


「新聞紙」にピン!と来ました。
私は「世間話」的な事柄が大の苦手です。

芸能人が結婚・離婚・不倫したとかしないとか、株価・金利・消費税が上がったとか下がったとか、政治や経済はもちろん、どこで事故が起きたとか、火事で何件焼けたとか全く興味が持てません。

「その情報、要るか~?」と、ついつい思ってしまいます。

ですが、自分もそんな世間の中のひとりです。
そして、そんな世間のアレやコレをぎゅっとまとめたものが「新聞」です。

たぶん、そんな世間とうまく付き合って、子供のチャンバラみたいに、うまく遊んでしまえ!
っていうメッセージなんだろうと思います。
遊ぶには、受け入れて、愛することが前提ですからね。



「情報が錯綜しているのだ。この人には持て余す情報量だ。あまりの多くの情報がこの人に降りかかり、いまやこの人の頭をコツコツと叩いている。なので、この人は痛がっている」


どうすればよいのでしょうか?

「シンプルになろう。いったんシンプルになろう。これはやってみようと思わないとできないけれどね。一切の情報源から離れよう。そういう時間を自分で作るのだ。文字や言葉や写真から一切離れる時間だ。「一切」だぞ。

気づいているだろうか、文字や言葉や写真は他人のもので、この人のものではないのだ。自分の内側のものではないから情報からコツコツ叩かれて痛いのだ。意識してやってみなければ、その美しい時は得られないよ?」


「情報」とは、スピリチュアル系の情報だと思います。「ある方面の特化した情報」とはそのことです。

親、教師、上司などから世間の「常識」を叩き込まれて、それを信じ、やったがうまくいかない。
世間の中でうまくいかず、どうにもならなくなると、やはりその逆の方面に興味が向きます。

反動で、逆の「情報」を集めていたのがこの数年です。
情報源は主に本です。
『神との対話』、『バシャール』、『引き寄せの法則』.....などなど。
どれも有益な情報で、世界の見方が大きく変わったのは事実です。

ですが、今度はこっち側の情報に疲れてきているのかもしれません。
ガイドさんが言われるように、いったん、休んだ方がいいかもしれませんね。



具体的にはどうすればいいのですか?

「公園でもどこでも良い、自然のあるところへ行ってみよう。そこで、思い切って裸足になろう。そして、大地を踏みしめるのだ。土や砂、芝の上を歩いてみよう。

その時にね、この人にとってこれまで大事だった一切の情報源を持たないことだ。遮断するようにするのだ。そうすると、別の味わい方で自然を味わうことができる。

つまりね、「肌で味わう」のだ。あなたは目だけなのか?耳だけなのか?そうではないだろう?あなたは目や耳だけでできているのではない。大地を踏み、風を感じる肌があるじゃないか。

この人が地球という星の上で生きているということを感じてみて欲しいのだ。裸足になれば、足は大地を感じ、肌は風を感じることができる。じっくりと感じて欲しい。風は見えないけれど、この人の肌はもちろん、耳や鼻、舌に当たって色々な表情をつくる。これが自由なのだ。風は自由なのだから、それを肌で感じる美しい時間は自由なのだ。

つまり、大地に生きるこの人は、自由なのだ。大地に生きるこの人は自由ということは、この人自身が情報源だということだ。この人自身が情報源なのだから、この人自身の内側からあふれ出てくる思い、情熱に従えば良いだけなのだ。やってみてごらん。とても波動が上がる。感じるのだ」


たしかに自然に触れることはほぼ無いです。外に出ませんからね。

それでも最近は徐々に自然に目が向くようになって、歯を磨きながら小さな中庭の草花を見たり、飛んでいる小さな鳥や虫や蝶を見ていると、穏やかな気持ちになります。鳥の鳴き声が気持ち良いです。鳥って夕方も朝以上に鳴いています。

そう感じるのも「窓越しに」なんですけど。(^ ^)
そうですね。外へ目を向けて、少しは出てみます。