おハワイ、オアフ島出身、高砂部屋!

次はここへ書き込めばいいのだろうか
先輩方、他に望ましい場所があれば教えて欲しい。
ちなみにこれはKonishikiだ。Hyodoはもうここへ書き込むことは無いだろう。


コメント欄から昇格シリーズです。

ご質問をいただきました。

最近 食用のどうぶつのことを考えてしまいます

肉を手に取ると その姿を思い出し食べれなくなってしまいます
家族がいるので 肉料理は作るので殺生をしているのに違いはありませんが

もともと嫌いではないので 食用にされた上に食べられず捨てられてしまう
と言うのがダメで 飲み会・バイキングなどでは 残ったものを食べてしまいます

でも食肉になってしまったどうぶつからすると
殺されたことに違いはないので 死んだ後にどうなろうと思いに変わりはなく ただの私の自己満足なのかとか考えてしまいます

堂々巡りです


動物も どこかの家の家族になろうとか
野良猫になろうとか 家畜になろうとか
自分で選ぶのでしょうか?



これ、とても良いご質問だと思いましたので、十両に昇格です。


そのままコピペ!w



コピペピプー!
(翻訳:楽ちんだー!)



異論は受け付けます。

(カッコ)部分は、補足です。


【以下、私の見解】

よいご質問、ありがとうございます。

大丈夫です。安心してください。

「人間側」と「動物側」の2つの側面から考えましょう。

まず人間側。

あなたがもっとも離れるべき感情は、「恐怖心」と「罪悪感」です。

もっともあるべき感情は「感謝」です。


これはいいですね?

(ちゃんと言いますと、「べき」というものは本来ないのですが、言葉のアヤです)


今日のワンネス師匠の記事をご覧くださればお分かりの通り、料理する人間の「思い」は、そのまま料理に反映されます。
(↑クリックで飛びます)

ですから、あなたが動物を料理される際、「罪悪感」は要りません。

それよりも「ありがとうございます」と感謝をして愛情をこめて料理することです。


ちなみに、我が家では子供が生きたエビを剥くときには「南無阿弥陀仏と言いながら剥いてごらん」と言っています。

我が家は曹洞宗なので、宗旨は違いますがw

南無阿弥陀仏も感謝の言葉ですのでそれでよいという考えです。



次に、「動物側」から考えてみましょう。

「どこかの家の家族になろうとか、野良猫になろうとか、家畜になろうとか、自分で選ぶ」

結論から言えば、あなたのおっしゃる通りです。

すべての存在に「学び」があります。

地球のC1にやって来るのも選択したからです。

それが楽しいからです。
(「学び」という言葉に抵抗があれば「楽しい」でもかまいません。「いやらしい」は違います)


家畜で考えますと、

「今度は自分の肉体を犠牲にして、人間のお役に立ってみたいなあ」

という人生を選択したのです。

最高に尊い選択を、彼らはしているのです。
(↑これと似たようなことは、まるの日さんもどこかでおっしゃっていたような気がします)


ですから、お肉を食べることに罪悪感を持つ必要はまったくないのです。

さらにいえば、その派生として

「お肉を食べるのはよくないことだ」

という価値観は持っていても結構なのですが、

その価値観を「他人に押し付けない」

ということにもなります。
(↑これ、大事です。ベジタリアンの方はお一人でその価値観を実践されるようにしましょう)


この世はミクロでいえば原子で構成され、そこに

「きれい」
「穢(きたな)い=ケガレている」


という概念は本来ありません。

だって原子だもの。


(♪いとしさと切なさを兼ね備えてる


原子!by50TA)


H2Oはただの水(という原子の組み合わせの分子)であり、それが「きれい、穢い」という価値観はH2O以外の「何か」がそう思わせるのですね。


お肉(家畜)も私たちも、同じたんぱく質(という分子)です。

たんぱく質にきれいも穢いもないのです。

ただそのたんぱく質に「愛」「感謝」「循環」が込められて家畜や人間をやっています。


なので、

たんぱく質(家畜)を食べるたんぱく質(人間)

は「愛」「感謝」「循環」のこころでもって「いただく」というのが一番自然な姿なのです。

(目に見えない世界は「愛」「感謝」「循環」でできています。
ガイドさんの表現をかりれば、「愛」のC1での集約点の1つが「人間」なのです。
なので、たんぱく質の私たちは淡泊質であればよいのです)


食用の動物は「経済動物」と呼ばれます。

経済動物を飼育している方々も、「愛」をもってエサをあげています。

いずれ人間の口に入りますが、それまでは「愛」をもって飼育されておられます。

大事なことは、彼ら畜産業界の方々は「感情」から離れていることです。

これで自然な姿です。


放牧されている牛さんを見て、それを飼育されている方に

「でも、この子たち、食べられちゃうんですよねえ?」

という質問をしてみてください。


「ええ、経済動物ですから」

という、一見冷徹な、冷たい一言が返ってきます。

でも、それでよいのです。

その人は冷たい人ではなく、「感情」から離れた人なのです。



まとめますと、順番が逆ですが、


ウシさん
「人間の役に立つために、わが身を犠牲にしよう!を選択しC1にやって来る」

  ↓

畜産業の方々
「経済動物として感情から離れて、純粋な愛で育てる」

  ↓

人間
「罪悪感ではなく、感謝の気持ちでいただく」

  ↓
ウシさん
「やったモー!楽しく学べたモ!ウシウシ!」



という感謝の循環がそこにあるのです。


食べる人間が、罪悪感を持ってしまうと、循環がせき止められて面倒くさいことになります。