おはようございます。

みゆたろさんの「ガイドとの対話」のご感想と答え合わせです。


とても長いので、2回に分けました。

今日がお母さまの対話、明日がみゆたろさんの対話です。


みゆたろさんからいただいたご感想の一部です。

ジーナさん本当にありがとうございました。

母が亡くなった直後のつらいときに取り急ぎのメッセージを送って頂き、少し落ち着いた頃にまとめたものを頂き、心の寂しさやざわつきはあるけれど、救われた思いがしました。

そして折に触れて読み返し私の心の支えになっています。


こちらこそありがとうございます。


人間は死んだ人を見ることができません。

それゆえ、昔からさまざまな「憶測」をしてきました。

そうした憶測が、ときに「たたり」や「さわり」「バチ」、その他もろもろの信仰というかたちで私たちを縛ってきました。

でも、そうした数千年来続いてきたまやかしの鎖から、いよいよ解き放たれるときが来たようです。


私はブレイクさせていただいてまだ半年のペイペイです。

なので、お亡くなりになった方とここまで深く対話させていただいたのは初めてのことです。


それでも分かったことがいくつかありました。

へミシンカーなら常識ですが、あえて書きますね。


1つは

「生前の『思い』が、死後ダイレクトに影響する」

です。


人間は肉体で生きているのではありません。

「思い」で生きているのです。

死とは「C1に肉体をお返しする」ことですから、肉体がなくなると本来の「思いそのもの」に還ります。

その時、生前のこだわりやとらわれがあまりにも強いと、そうした「こだわり」「とらわれ」は「思いそのもの」ですから、死後「こだわり、とらわれた世界がそのまま出現する」ことになります。


私たちは今生では必ず死にます。

潜在意識でそのようにアファメーションしているからです。

誕生日を祝ったり、お葬式で悲しんだりを繰り返すことで、釈迦の言う「生」「老」「病」「死」が強力に刷り込まれており、これをほどくのは容易ではないでしょう。

ただしかし、悪いことでもありません。選択しただけです。


大事なことは

「見えない世界に思いをはせ、C1でとらわれから離れつつ、働く」

ということだと思います。


分かったことのもう1つは

「死は寂しいが、悲しむことはない」

です。


みゆたろさんもおっしゃり、私も驚きましたが、お母さまは

明るい

のですね。

お母さまご本人も現在の状況を「甘美だ」と言われていました。


私たちは「思い」で生きています。

肉体をお返しすると「思いそのもの」になります。

それはガイドさんの言葉をかりれば「情報そのもの」になるということです。

語弊感はありますが、今現在ではこの表現しかありません。


何が言いたいのかというと、肉体から離れ「情報そのもの」になると、どうやら

「かなりの情報を瞬時に理解する」

ようなのです。


私たちはC1で情報を得る際、新聞や書籍、テレビ、ラジオ、ネットなどを使います。

インターネットが分かりやすいので、ネットで考えます。


いま、あなたはネットを使ってこのブログをご覧になっています。

それは五感を用いて「情報にアクセス」しているということです。


本来のすがたである「思いそのもの」「情報そのもの」に還ると

「ネットそのもの」になる

ということです。


まさしく映画「マトリックス」のようですが、異論もあることでしょう。

でも、C1とF23以上との関係をそのようにとらえると、すべてつじつまが合うのです。


だからこそ「心配しなくて良い」と言ってくる意味が分かるのです。

あなたは現在PCやモバイルの前にいますが、肉体を離れるとPCやモバイルの「中に入る」ような感じです。

なので「ネット全体」を理解し、「部分」にもなり、「同時に分裂」して存在することもできるわけです。

そうしたことが理解できたからこそ

「心配しないでほしい」
「甘美だ」
「すべるように軽い」
「C1をしっかり味わってほしい」
「49日はあるけど、こだわることもない」
「人生は一瞬だ」
「会おうと思えば会えるし、同時に在る」
「そのことを考える必要もない」
「寂しがることはなかった」


という言葉になったのではないかと思うのです。

これらの言葉は「思いそのもの」「情報そのもの」「ネットそのもの」に還ったからこそ、普通に出てくる言葉だと思うのです。


長くなりましたが、雑感を述べてみました。


C1はリアルに感じますが、仮の家です。

死とはまさしく家路につく旅

「ゴーイング・ホーム」

なのです。



それでは、どうぞ。

なお、「フォーマル用サブバッグ」のビジョンについては、みゆたろさんより追加のご感想がありましたので、明日改めてご報告させていただきます。


みゆたろさんのお母さまがが亡くなられたのですが、お母さまのガイドを呼んでいただけますか?

「黄色い財布」があらわれた。



「カードが3枚ほど入っている。何か茶色で細く文字が書いてある」


母がいつも使っていたのは黄土色の財布でした。
黄色い財布も似ている気がします。



【お母さまのガイドさんとの対話】

みゆたろさんのお母さまのガイドさんに伺います。
ご家族に、何かお伝えしたいことはありますか?

「クレープ」のビジョン。



「安心してね。これで良かったの。クレープは端っこの方まで甘いけれど、私も実に甘美な人生だった。なんの心配もしなくていい。人生のはじめの方は辛いことがたくさんあった。でも、最後の方はとても楽しく、甘美だった。だから、これでとても満足しているのです。安心してね」


母から辛い過去を聞いたことがないのですが、事情があって小さい頃親戚の家に預けられて随分大きくなるまで育っています。よく考えれば結構辛いことですよね。
亡くなってお葬式で母の為に泣いてくれる方がたくさんいて、愛された人だったのだなと改めて思いました。自分のことより人のこと、という人だったので充実してもいたのかなと思います。



急逝されたのには、何か意味があるのでしょうか?

「大空を舞っている鷹(タカ)」のビジョン。



「飛び立つときが来た。舞うときが来た。死に方や死ぬ時期に、意味を持たせないでね。タカは自由に空を飛ぶでしょ?そこに意味を求める必要はないように、私の死に方や死ぬ時期に意味を持たないで欲しい。それはタカに『なぜ飛んでいるのか?』と意味づけをすることで、タカは『飛び立つときが来たから』としか言えない。私も『飛び立つときが来た』としか言えないの。死ぬ時期に意味を求めないようにしてください。舞うときが来たのだから」



ちなみに、今回C1で亡くなったのは、どういったことが原因でしょうか?

「心臓が圧迫される」ビジョン。



「最後は結局心臓です。心臓はまだ使うことが出来たけど、ほかの内蔵との兼ね合いもあって、心臓も終わり。それもちゃんと計画通りだったから、それが分かったから、安心してね。すべて完璧です」


本当に突然のことだったので、私自身も後悔がたくさんあり眠れないほどでした。
それでも、このメッセージが一番心の中にガツンと入りました。
飛び立つときがきたんだな、ということです。
(一方でそれを認めたくないぐるぐる堂々巡りの自分も止められませんが)
亡くなったのは突然の内臓の感染症で原因がわかる前に心臓が止まって亡くなってしまったのでその通りだと思います。



今、フォーカスでいうと、どちらにいらっしゃいますか?

「魂そのものは、まだC1にとどまっている。ただ、F25とF27にも、分かれて同時にいます」

ありがとうございます。
みゆたろさんのガイドさんがいま同席していますが、C1のみゆたろさんはC1にいてヘミシンクでも何でもいいのですが、お母さまの存在を知覚したり、お話ししたり出来ますか?

「もちろんでしょ!ここはいいところ。いつでも大歓迎です」


分裂しているんだ!とびっくりしました。
今は多分心がクローズしている部分もあり、ヘミシンクをなかなかできないところもありますがもう少し落ち着いたら再開したいです。

今は母に話しかけながら日常を過ごしています。
今まではそういうわけにはいかなかったけれど、今はどこでも一緒だから、こういう風にしてたんだよ~とか一緒に見てもらえるなという気持ちです。
気配を感じるとかはないんですが。



みゆたろさんへ、何かメッセージはありますか?

「くちびる」のビジョン。



「もっとお話ししたかったね。でも、話し足りないということはなかった。いつでもとても楽しかったよ。愛おしい時間だった。それはいま、凝縮されている」

「オレンジ色の編みサンダル」のビジョン。



「これで十分。あなたを子供として生んで、ありがたいやら楽しいやら。あなたも私を選んでくれてありがとね。私のいまは、春先にね、明るい色のサンダルを履いてお散歩へ行くときのように、こころがとても軽くて、とてもすがすがしい気分。あなたたちと過ごした日々は、このサンダルなのです。とっても軽いの。引っかかることがない。軽い。湿っぽいことは嫌。ときどき思い出してね。それくらいの感覚でかまわない。だって満足感で一杯だから」


最後に会った春休みのたくさんの思い出があまりに素晴らしく、あのときのことを母が亡くなった気持ちをいれずに思うと、私もそんな気持ちになります。



ご主人に何かお伝えしたいことはありますか?

「フォーマル用サブバッグ」のビジョン。



「結婚式などのフォーマルな場で使われるバッグ。最近のものではなく一昔前の印象で、和服に合う感じがする。桃色の地に金色の刺繍が施してあり、とても上品な感じ」


これは現実にこのバッグが存在するかもということですよね。
父にそれとなく聞いてみましたが、あるような気もするが、どこにあるのか全然わからない、おいおい探してみるとのことでした。
私としては、白地に金などの刺繍があるフォーマルバッグは遠い記憶にあるような気がしています。妹も同じことを言っていました。
今度実家に帰って見つかったらまたご報告します。



(↑これについては後日談がありますが、さらに長くなりますので、最終回の明日のご紹介いたします)


みゆたろさんの妹さんに、何か伝えたいことなどありますか?

「弧」のビジョン。



「爪の先のような、ちょっと尖ったもので空間上に弧をスーッと描いているイメージ。弧は、円の4分の1くらいのもの」

「ケンカもしたけど、それは別々だったから。でもこれからは一つよ。嫌かもしれないけれど、安心してね。でも、もともとそうなっているし。存分にC1での人生を味わって、楽しんでね。私は十分に味わい楽しんだから、もう私の心配はしなくていいから。ここはとても気持ちがいいの」


妹と母は妹が思春期の頃はケンカしたこともあるけれど、今は仲がよかったです。
そういえば、私は母とケンカした記憶がないです。



ありがとうございます。
いわゆる49日というのは、そちらにもあるんですか?

「スキーヤー」のビジョン。



「上級者のようにスキーヤーはコブの多い斜面をシャンシャンとひざを曲げて軽やかにすべっている」

「こちらは思っていたよりも軽やかにすべるようなんです。そして、それが「同時に在ることが出来る」状態になっています。とても軽いの。

49日というものは、たしかにあります。たしかにありますが、こだわらなくていいです。

私たちの国の文化で49日というものはとても根強い。だから、それはそれであると思って、同時にそれにこだわらないという態度でいてください。バランスよくいればいいです。どちらかに片寄るとバランスを崩して転んでしまうから。

人前では49日は大切にしましょう。一人で私のことを考えるときは49日の枠ははずしても全然かまいません。『それはない』と思えばなくなりますから。一瞬です」



C1にいてもF27に居ても、関係なく母はいるんだなということは心強かったです。

49日やお盆、お彼岸などにこだわることないのですね。



「会おうと思えば会えますし、同時に在るので、そのことを考える必要もないのです。ちっとも寂しがることはなかった。これは私の喜びです」


私も今はとても難しいですが、その境地に至りたいです。



「花火は、花火大会のようにボンボン夜空に美しく打ちあがって開いている。ドンドンパチパチと大きな音がする」



「人間の一生は、まるで花火のよう。本当に一瞬のこと。でも、花火は消えて無くなるように思えるけれど、必ず私にもあなたにも、お互いに印象深く、美しく、楽しく、いつまでもこころに残るものです。

人生は、花火です。暗くなるのは嫌。あなたにはワクワクして欲しいの。あなたがワクワクするとき、私もワクワクしてるの。あなたが暗く沈んだら、私も暗く沈むんです。

花火を打ち上げるんだから、湿っぽくちゃあだめでしょ?カラッとワクワクしながら、たくさん打ち上げましょ?それが私の楽しみであり、私もあなたたちの打ち上げる花火を見ていますから。

本当に、瞬間でした。一瞬でした。「ありがとう」と言いたいです。ありがとう。

これは永遠の別れではありません。私があなたたちの中に息づく「出会い」なんです。

花火が楽しく、美しいのは、一瞬で消えるから。私が一瞬で消えたように、誰もが一瞬で消えます。だから、C1の人生は誰もが美しいの。

私ももちろん愛しています。私はここにしばらくいて、もう少しこの愛しい場所を楽しみたいと思います。私が「愛そのもの」へ還るまで。ありがとね。ありがとね。ありがとね」

ありがとうございます。


生きていた頃の母はとても心配性で、それで私も困ってしまうこともありました。
それでいて物事を悪いほうに捉えずにいいように解釈していこう、というのも私たちによく言うことでもありました。

メッセージの中の、母はいつもの関西弁混じり(もと関西人)ではなくて、やたらポジティブなので少々とまどうところもありますが、亡くなると皆悟る、というのはこういうことかもしれないですよね。

母が亡くなって悲しみに沈んでいる自分も居て時々激情のように自分を襲いますが、同時にあらゆることに感謝の気持ちが湧き上がってくるのも感じます。母にも父にも妹にも周りの人にも、そういうものだけではなくて、生きていること、命そのものに対して、限りある関わりの素晴らしさ、目に見えたり心に現れたりするもの全てに対してです。

そして特に私は母とのつながりが強かったので、母が亡くなって、ようやく本当の意味で父に対する耳が開かれた感じがしています。