前回、フサエさんという女性をレトリーバルさせていただきました。

フサエさんは、大きな意味で「私」と同じであって、時代や場所、性別などを超えて「同時にある自分」です。

「同時にある自分」のなかには、いわゆる「成仏」していない存在もあり、そうした存在たちはF23からF26のこだわり領域に引っかかっています。

ちなみにそうした存在と「私」は同格です。どちらが優れていて、どちらが劣っているという価値観は幻想であり、存在しません。

ヘミシンクをよくご存じない方へ申し上げますと、フォーカス23から26で引っかかっている「存在」へ手を差し伸べて、F27まで引き上げて成仏して差し上げることを主にヘミシンク用語で「レトリーバル(retrieval=救出、英語読みでリトリーバルとも)」と呼びます。語源は昔のフランス語からで「再び見つける」という意味です。

これまでモンローさんはじめ、数多くのへミシンカーの猛者たちがレトリーバルをしてこられました。



私の場合、これまで「滝に打たれている行者さん」と「フサエさん」が「同時にある自分」でした。

このお二人をレトリーバルさせていただいたのですが、その時心からうれしい思いが湧きあがってきたと同時に、私自身にもある変化を感じました。

これはうまく言えないのですが、ひと言でいえば「解放」されたのです。


ある「ブロックされていた思い」があったのですが、解放されるまで「そんなブロックされていた思い」があるなんて「自覚さえしていなかった」のです。

このたび2人の存在をレトリーバルすることで「ブロックしていたある思い」に気づかせていただきまして、気づいたことで自然にリリースすることができました。

これは気持ちいいです!



何を言っているか分からないかもしれませんが、きちんと言えば「善悪からの解放」です。


この世には善悪がない


これが宇宙をつらぬくルールです。マーフィーの法則は宇宙の法則です(←うそ)



私たちは「ただ存在している」だけです。

ただ存在しているのですから「善悪がない」のは当たり前田のクラッカーですね?


そこに善悪を持ち込むと「価値観」となり、
その価値観が高じると「こだわり」になり、
そのまま死んじゃうと「未練」となってF23からF26に引っかかるのです。


すべては「善悪はない」と知ることで解消します。

善悪はないので、他人の批判や悪口からも、自然に離れていきます。


ついでに言ってしまいますと、「善悪はない」ということは具体的な一つの派生として、


「○○するべきだ、するべきでない」
「○○であるべきだ、あるべきでない」
「○○でなければならない、しなければならない」



というところからも解放されます。



人間関係の悩みというものは、基本的に

「人をコントロールしたい」

という思いから生じますね?


私たちへミシンカーとしては


「ヘミシンクはこうするべきだ、こうするべきでない」
「ヘミシンクはこうあるべきだ、こうあるべきでない」
「ヘミシンクはこうでなければならない、こうしなければならない」



という姿勢に気を付けるということです。


でも、これが難しいのかもしれません。

なんてったって人間は

「縛り、縛られるのが大好き」

な生き物ですから。



こんなことをいうと、たぶんいろいろなご意見があるかとは思いますが

「そのご意見も、また良し」

ということです。

その考え、意見、価値観でさえ

「許され、ただある」

のですから。


何もかも自由なので、善悪はない。
だからあらゆる価値観もいらない。

なので自分の価値観を押しつけないし、
他人からも価値観を押しつけられない


という姿勢です。


老子の「TAO」に似ているかもです。

ていうか、同じか。

般若心経でいえば

「不垢不浄」

にあたりますね。



さて、話が小うるさくなってしまいました。

一応今回は「レトリーバルの効能」について考えてみました。

次回は、その「可能性」を考えてみます。