故・竹内さんと過ごした「濃密」な3年間 | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

故・竹内さんと過ごした「濃密」な3年間

 

生きていることが奇跡!!宍倉清則のいまのキモチ

 

 

 

生きていることが奇跡!!宍倉清則のいまのキモチ

 

 


5月3日、ゴングの創始者である竹内宏介さんが亡くなられた。65歳。

 

そのとき、このブログは閉鎖中だったが、5月4日からの4日間、やたらとアクセス数が多かった。このときだけは特別に私が思い出を書くと思われたのだろう。でも、そういうわけにはいかなかった。

 

 

私は通夜に行った。係の方に案内されて、着いた席のとなりはグレート小鹿さんだった。通路側だったので、焼香のとき、誰が来ているのか、ずっと横を見ていた。後ろから、ひときわ大きな影が近づいてきた。武藤敬司選手だった。意外だった。

 

 

焼香が終わったあと、係の方が「お顔を見たい方はまたお並びください」と言ったので、並んだ。今度はひつぎのすぐそばに奥さまがいらっしゃったので「初めまして、宍倉と申します」と挨拶すると、奥さまは「お名前は存じあげています」と言った。

 

 

うれしかった。奥さまはプロレスのこと詳しくないのに、夫婦のあいだで自分なんかの話題が出ていたんだなあって。

 

 

「ドクトル・ルチャ」清水氏と乾杯するとき、異口同音に「コーラ、ないね」。係の方に「コーラ、ありませんか?」と聞くと「ありますよ」。コーラをもらった。竹内さんは水を飲むように、コーラを飲んでいた。「やっぱ、ここはコーラだよね」。

 

 

みんなが帰る寸前に、ウォーリー山口(雄介)が現れた。作業着のままだ。奇遇なことに、彼は近くの府中市で仕事をしていた。明日も同じ場所で仕事だと言う。

 

 

付き合うことにした。竹内さんが眠っている近くで飲むことで、我々なりの供養をしよう。朝まで飲んだ。途中、ウォーリーは少し寝たけど(苦笑)。

 

 

竹内さん、私、ウォーリー、デザイナーの鈴木さん(女性)の4人で、よく朝まで仕事をした。もしかしたら、自分の人生でいちばん「濃密」だったのがゴングでの3年間だったかもしれない。