電車での携帯の通話、なぜいけないの? 私はOKでもいい | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

電車での携帯の通話、なぜいけないの? 私はOKでもいい

東京でも、午後11時半ぐらいかな、雨がザーッと降り出して、以後、やんだり、降ったりの繰り返し。


今日は例の「ザ・ハンバーグ」に行ったら、大盛りのご飯の量がいつにも増して、すごくて、でも、おいしいので、完食して、あまりにもおなかいっぱいで、帰って少し寝ていました。


アメーバのニュースで「電車、バスでの携帯の通話はなぜいけないの?」という記事があった。答えはあらためて言う必要はないでしょう。


私は、OKでもいいと思っています。出た、得意の極論。でも、本当にそう思っているので。


逆に言うとね、車内以外の街んなかなら、いくら話しても、大声でも、かまわないわけじゃない? 誰も、とがめられない状況でしょ。そっちのほうが問題。


私にとっては、車内も、街んなかも一緒なんです。街んなかがOKなのだから、車内もOKでいい。そういう考え。駅のホームで話していて、電車が来たら、切る人。一緒だよ、一緒。こっちからしたら一緒。


先日、自転車に乗ったまま、ニコニコしながら、携帯をかけているオバチャンが、前から来ました。よくあるでしょ。狭い道。


私はまったく道を譲る気はない。どかない。ぶつかってもいい覚悟。オバチャンはよろけながら、それました。それでも携帯で話したまま。ぶつかったら、私、言います。「だいの大人が何やってるの! こうやって、電車に轢かれて死んだ人、いるんだよ」って。菅原文太さんの息子がそうです。しかも、踏み切りが降りているのを越えて。


まあ、絶対に無理だとは思うけど、タバコの「ここの喫煙スペースで吸ってください」と同じように「ここのスペースで話してください」となったらいいな、と思っています。でも、そのスペースで話している集団は、私には滑稽に見えるけどね。


間違いなく言えること。携帯の出現は人々を明るくした。携帯を耳に当てている人はみんな、ニコニコしているもん。みんな、寂しいんだな。


この人たち、携帯がなくなったら、寂しくて、生きていけないのでは…と思う今日このごろ。今日このごろじゃないな、長年、そう思っています。


加護さんが退院したそうですね。一人にするのが危ないので、当分は誰かがついているみたい。よかった、よかった。生きていて、よかった。