レッドスター・ベオグラードのこと。 | 素敵な人に会いました

レッドスター・ベオグラードのこと。

「竹内さん、ストイコビッチのこと好きでしょ?」

今日会ったある男性に言われました。
「はい。大好きですよ」

「ぼく、レッドスター・ベオグラード時代のストイコビッチのユニフォーム持っていますよ」

海外のサッカーチームのユニフォームを集めるのが趣味だという彼は、たくさんのユニを持っているそうで、最近のお気に入りは、ドイツ代表チームのアウェイのユニだそうです。

↓これのことですね。


レッドスター・ベオグラード時代のストイコビッチは、20代はじめの、意気が良くて、ものすごい勢いで得点する選手でした。

1986年から90年なので、大変なレアものを持っているとのことです。

「まあ、うらやましい」

ひとしきりサッカーの話で盛り上がり、彼と別れて電車に乗ると、ちょっと気になりました。

ストイコビッチとユーゴスラビア代表チームの悲劇の話はよく知られていますが、

「レッドスター・ベオグラードって、どういうチームだったんだろう?
 だいたい、いまはどこの国のチームなんだろう?」

携帯で検索してみました。

Wikipediaに書かれている「レッドスター・ベオグラード」のページの「歴史」の項目を読んでいたら、あまりの内容の重さに、呆然としてしまいました。

レッドスター・ベオグラード、セルビア語では、FKツルヴェナ・ズヴェズダ。

1945年 - 1965年[編集]
第二次世界大戦中の1945年3月4日、レッドスターは反ファシズムを標榜する若者たちの集団による[2]内務省系[3]の総合文化クラブとして設立された[2]。

戦時中にできたチームだったのですね。

そして、ユーゴスラビアの内戦が激しくなる時期に、ストイコビッチが入団します。

1986年 - 1991年[編集]
1986年、復帰したジャイッチを始めとするフロント陣は5年に渡る長期計画を立て、欧州制覇という大目標を掲げる[2]。そしてジャイッチに才能を見いだされ、「ピクシー(妖精)」ドラガン・ストイコビッチが入団したのもこの年であった[14]。1987年の夏より5ヶ年計画は始まった。
1987年のクラブが誕生した日、レッドスターはレアル・マドリードにマラカナで敗れた。この日から1992年の3月までの5年間、レッドスターは黄金時代と言える最良の時間を過ごした。ロベルト・プロシネチキ、シニシャ・ミハイロヴィチ、デヤン・サビチェビッチなどユーゴスラビアを代表する選手が顔を揃え、国内リーグでは5シーズンで4度の優勝を飾った[6][注 1]。ストイコビッチは3年連続でMVPを獲得するなど大活躍し、1990年にクラブを去った。この5年間で監督は5人変わったが、フロント陣の顔ぶれに変わりはなかった[2]。
1990年4月から5月にかけてユーゴスラビア各地で初の自由選挙が行われ、連邦を構成する各共和国で独立の機運が高まっていた[15]。5月13日、ザグレブで行われた対ディナモ・ザグレブとの試合で暴動が起こり[16]、これをきっかけにユーゴスラビア全土に戦火が広がっていくことになる(詳細は1990年ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦での暴動を参照)。
1990-91シーズンのチャンピオンズカップでは、フランスのオリンピック・マルセイユをPK戦の末に破り初の欧州王者となる[17][7]。皮肉にも前年までクラブに多大な貢献をしてきた「第5の星人」ストイコビッチはマルセイユのベンチを暖めていた。試合を決めるPKを蹴ったダルコ・パンチェフはこのシーズンのヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得した[18]。その後のインターコンチネンタルカップでもチリのコロコロを破り世界一となり、このときの「セルビアを東京へ」というスローガンは、その後のユーゴスラビア紛争でも多用された。


レッドスター・ベオグラードの過酷な歴史。
いまは、セルビアのチームですが、ユーゴスラビア紛争の負の遺産は残っているようです。

かつての輝きを取り戻すよう、チャンピオンズリーグを再び制覇する日が訪れるよう、
心のなかでレッドスター・ベオグラードを応援しようと思います。

レッドスター・ベオグラード

スルビヤ・ド・トキヤ(「セルビアを東京へ」)



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