yahoo知恵袋にこんな質問 が寄せられている。


質問内容は長いので、リンク先を参照してもらいたい。



最初にこう書かれている。


「よく集団ストーカー被害を訴える人たちに向かい『精神科へかかれ』という方がいらっしゃいます(私の質問をご覧ください) 被害者の方で精神科にかかり医者に言われたとおり服用を続け病気(統合失調症)が治ったあるいは病状が悪化せずに快方へ向かったあるいは軽減したという方はいらっしゃいますか?」


これは、冒頭の部分だけなのだが、僅かこれだけの文の中に、この人の色々な問題点を見て取れる。


まず病気=統合失調と書いている所だ。

自称集団ストーカー被害者=統合失調症ではなく、不安を伴う精神状態に共通した妄想であり、それが病気の人もいれば病気になる手前の人もいるし、病気の素因を持っているだけの人もいる。


この人は、「病状が悪化せずに快方へ向かったあるいは軽減したという方はいらっしゃいますか?」と質問している。

しかし、そんな物はネットの中に山ほどある。

それを調べていないだけだ。


その「調べる」と言う所に視点を向けてみよう。

この人は、「よく集団ストーカー被害を訴える人たちに向かい『精神科へかかれ』という方がいらっしゃいます」と書いており「病気(統合失調症)」と書いている。

集団ストーカー被害者=統合失調症、医者へ行けと言うやり取りは2chに多く見られ、自称被害者のブログのコメントにも書かれる事がある。


この質問からは、そうしたやり取りを目にしてきた事が伺われ、それはネットで「集団ストーカー」等のキーワードで検索して調べている事を意味している。


それがそもそものボタンの掛け違え。

この人の文章からは、統合失調症の臭いはしない。

つまり、統合失調症ではなく他の神経症や単なる不安から来ている可能性が高い。

それを、統合失調症と言う固定観念で考えれば、「違う」と言う思いになるのは当たり前の事だろう。


最初の前提か間違っていれば、どれだけ考えても正しい答え等出るはずも無い。




自称被害者が、通院して寛解すれば集団ストーカーと言う言葉は使われ難くなり、被害妄想という言葉に姿を変える。


集団ストーカーと言う言葉ではなく、統合失調や鬱病等のキーワードで、回復日記のような物を探せば色々と出て来る。


これが「キーワードを探す」と言う事であり、自分に合致するキーワードしか探そうとはしない。

若しくは、異なるキーワードが頭に浮かんでこないし、目に入らない。

そうした理由の一つとして、「同一の理解」の問題がある。


例えば「心に病を抱える人とその家族や親族のすれ違いが分かるブログ 」のように、「化粧をする」と「化粧品を使う」と言う言葉の違いに拘ったり、逆に電磁波と音波を混同したり、自称被害者は同一と同一でない物の区別に難がある場合が多い。


集団ストーカー被害と心の病は別物で、別物は自分とは関係が無いから調べない。

また、この人のように「あえて私は『被害』とせずに『病気』と書かせて頂きました」と書いている人でさえ、病気として調べていないと言う事である。


そして、こうした掲示板で質問して、他人の妄想に触れてしまう。

他人の妄想は、妄想と見抜く事ができなければ、現実と妄想の混沌としたした世界に入ってしまう。

それは、自己の判断能力の欠如でもある。


これが、意外と自覚し難い。

自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分で触れると言う経験を積まず、ネットに依存している人ほど判断能力の欠如に陥りやすい。


例えば骨董の様な「外部性」を持った商品の購入。

年代や作者によって値段が左右される。

しかし、自分で本物か判断できなければ騙される。

その為、鑑定してもらったりする。

しかし、その鑑定も本当かどうかは分かった物ではない。

少しでも騙されないように、名のある鑑定士に鑑定を頼もうともする。


結局、その商品ではなく、年代やら作者やら希少性やらの外部性に振り回される。

それが、自己判断能力が無いという事だ。


別に、作者がどうだろうと、年代がどうだろうと、偽者だろうが本物だろうが、自分が気に入った物で自分が感じる値段に合致していれば買えばいい。



また、多くの人が批判をする中で、その批判に疑問を感じてもその疑問を口に出来なかったり、他の人と異なる意見を口にする事に抵抗を持っていたり、他の人に合わせようとするのも、判断能力の欠如である。


判断能力とは、経験の積み重ねであり、誰しも経験していない事に自信を持てない。

その代表的なのがネット。


論議とか話し合いと言えば聞こえは良いが、経験の無い奴がどれだけ論議を重ねても意味は無い。

1つの経験は1000の論議にも勝る。




ネットでの「コピペ」、それは自分の意見を持たず、他人の意見を引用しているだけ、しかしその他人の意見を自分の意見と錯覚してしまう。

コピペはあくまでもコピーでしかない。


それが当たり前と思っていれば、すでに自分の意見を口にする事が出来なくなっているのだ。


つまり、自分の思っている事を文章化できず、自分の感情や感覚にマッチした文章化してある物をコピペしているに過ぎない。


もしコピペする文章が見つからなければ、何処まで自分の考えを自分一人で文章化できるのだろうか?

そうした人に、多く見られるのが、主語と述語のハッキリしない文章や、自分の感情を表す単語を羅列しただけの定型文のような文章である。


この相談者は、そうしたと事からすると長文であり、単語を並べただけの文章でもない。

しかし、目新しさが何も無い。

2chで見慣れたやり取りの羅列にしか感じられない。

まだ、自称被害者のブログの方がオリジナリティーある。


色々な自称被害者が、皆同じ様な被害を訴えてはいるが、同じ様な訴えの中にも、それぞれに具体的な拘りと言う物がある。

この人には、その拘りが感じられない。


この文章から感じられるのは、自分が感じている世界観と同じ様な事がネットに書かれていて、その真偽を質問しているように感じられる。


質問の後半に、こんな事が書かれている。


精神科クリニックへ通うことにより被害が軽減するならば皆そうします


これも、自分で探そうとしていないだけ。

病院へ行こうとしない人や、病院に行っても妄想が止まらない人達ばかり探している。

そして、真に寛解に向けて頑張っている人を探そうとはしていない。



真偽が知りたいのであれば、自称被害者さんも集まってくる所よりこうした所 を見るなり、こうした所で聞くなりすればよい。



こうした質問もされているので答えておこう。


「彼らが全員仮に統合失調症であると仮定してではなぜこの被害を訴える人が減らず逆に増えつづけるのか?

その理由は一体どこにあるのか?」


その理由は家庭教育、そして親子関係の連鎖にある。

高度経済成長以降、豊かな暮らしを求め、子供には高い教育を受けさせようと親たちは必死で働いて子供を大学へ行かせようとした。

丁度今の中国のような時代だった。


豊かな暮らしを求める為、共働きする家庭が増えて「鍵っ子」と呼ばれる子供が増えて行った。

丁度その頃、それまでは「子供は遊びのが仕事」と言われていたのが、「子供は勉強するのが仕事」と言う世相に変わってきた。


そして「教育ママ」と言う言葉が生まれたのも、高度成長期以降である。


この時代に親子関係や家庭教育の変化が始まる。


遊びよりも勉強、勉強させる為に友達と遊ぶ時間を減らされ、友達からライバルへの意識改革に似た世相が広まる。

「友達同士助け合う」のではなく「友達は受験のライバル」で、相手を蹴落としてでも、「自分が良い学校へ入る」と言う風潮も生まれた。


そうした風潮は「受験生ブルース」と言う歌の歌詞にもなっているほどだ。


「鍵っ子」は親子が接する時間が少ないため、親子関係の経験が少いまま成長して行った。



その高度成長期時代に生まれ育った人達、いわゆる団塊の世代の人達が親になる。


人間は、自分達が育った環境を当たり前と思い、自分の子供たちにも同じ価値観で育てて行く。

つまり家庭教育と親子関係の連鎖である。


自分が親になった時に、自分が親と接した時間が少なければ、子供との接し方が分からない。

親から言われていたのが、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」。

それがそのまま子供との接し方になる。

子供は親子関係を他人に応用して社会性を持つが、応用すべき物が無ければ社会性を持てない。


そして、親は自分の時以上に遊びよりも勉強をさせるようになり、新しい要因が生まれる。


それが「少子化」である。


少子化により子供の数が激減すると、遊べる友達の数も少なくなり、勉強勉強と言われない子供にも影響が出始める。


クラスは少人数制になり、子供の社会が小さくなって行った。

つまり、子供の社会の「村社会化」である。


「団塊の世代」のように、多人数の多クラスであれば、様々な価値観に触れる事で自然と多様性が身に付いたが、村社会では多様性は身に付かない。


村社会では「皆と同じ」が求められ、皆と同じを求めてしまい、皆と異なる事に不安を感じてしまう。


つまり、勉強や少子化により他人と接する機会が減り、子供社会が村社会化して多様性を失っている事が、ストレス耐性を持たない子供を作り上げている。


それに輪を掛けるように、携帯メールやインターネットコミュニケーションへの依存。

必要なのは、現実世界での人間関係の構築。


多くの人と接し、多くの人と話し、多くの人と喧嘩し、人を傷付け、傷付けられ、そして仲直りする経験を積み上げる事。

その中で、異なる価値観を知り、異なる価値観を認め、異なる価値観を受け入れ共存する事で多様性を身に付ける事だ。


多様性を身に付ければ、ストレス耐性が身に付き病気になり難くなる。


ストレス耐性を身に付けない限り、治療しても再発を繰り返すだけだろう。


早い話、ストレス耐性を持たない脳は未発達な脳であり、未発達な脳は発達させてやれば良い。

脳を発達させるには、他人と目を合わせて話をする事と、触り触られる事。


脳は神経細胞の集まり、神経は感覚器官からの刺激によって活性化する。

「外で遊ぶ」と言う経験が脳を発達させるのであって、TVゲームやメールや勉強では脳は発達しない。







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