思考盗聴に関するコメントが入っている。
思考盗聴されていると言っていた人が、思考盗聴を証明出来た人は誰一人いない。
思考盗聴を主張して治療を拒否した人で、救われた人も誰一人いない。
思考盗聴と騒いでいた人が、治療を受けて心の病だったと気付き、救われた人は大勢いる。
思考盗聴があると騒ぐのは、個人の自由だ。
騒ぎたければ騒げば良い。
誰かに知ってもらおうとしたり、誰かに救ってもらいたい、そして止めさせたい。
そんな気持だろう。
しかし、騒いだとて何も変らない。
それは、自分が一番良く知っているはずだ。
自分の敵は他人では無く、自分の中にいる。
その一番の敵とは「強すぎる自我」だ。
強すぎる自我は、他人の忠告を聞かない、他人に認められない自分の主張を続ける、自分を省みない、と言う所現われる。
そうした人は「病気だから病院へ行け」と言われると反発する。
「病院へ行け」と言われるのは、救いの手を差し伸べられている事に気付かず拒否をする。
それはまるで、溺れている人を助けようと差し伸べている手を、突き放そうとする手に感じ、拒否しているのと同じ事。
その手を摑めば助かるが、拒否していれば溺れてしまう。
助けようと手を差し伸べても、その手を頑なに拒んでいれば、誰も助けようとは思わなくなる。
その結果、溺れ死んでも誰も困らないし、自業自得と思われる。
差し伸べられる手を、救いの手と思うか、突き放そうとする手と思うか、それは自分でしかない。
そして、自分と同じ溺れている人が助けを求めて伸ばしている手を、救いの手と思って摑んでしまえば、仲良く溺れ死ぬ事になる。
集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 1)/古牧 和都