ここでもう一度、人間をパソコンに例えた場合のBIOSとOSとアプリケーションの違いをおさらいして見る。


まずBIOSだが、BIOSは生まれ持って備わっているBIOSと経験でインストールされるBIOSがある。

経験によってインストールされるBIOSは意識化されず、主に生存と繁殖とコミュニケーションに必要な能力で、何度も経験と失敗を繰り返す事で「修正と調整」されてインストールされて行く。

その為、言葉で教えようとしても理解出来ない。


言葉はOSに相当し、OSをインストール出来るBIOSが生まれながらに備わっている。

言葉と言うOSは意思の伝達以外に「思考」する時にも使われ、生まれてからの学習によりインストールされる。


アプリケーションは言語と言うOSの上にインストールされ「道徳」「思想」等がある。


BIOS系のインストールは、自分の経験を重ねる事でプログラムされて行く為、プログラムを組んで実行して、不具合を修正して行かなくてはならず、経験が少なければ不具合の修正が不完全なまま成長していく事になる。


言語と言うOSは「模倣」と言う形でインストールされる。

最初は「親」の模倣、から始まり、他者の模倣をする事でインストールされて行く。


思想や道徳と言ったアプリケーションは、書物を読んだり他人に教えられたりしてインストールされるのだが、パソコンのアプリケーション同様、出来合いの物を入れるだけだ。


それに対し、自分でプログラムしていくアプリケーションがある。

それが、「自分の将来の夢」である。


「将来の夢」と言う自分でプログラムしていくアプリケーションは、経験によるBIOSのインストールと同じで、失敗と経験を繰り返しながら修正と調整を繰り返しながらプログラムしなくてはならない。



「いじめ」等の問題を考える時、こうしたプログラムの違いを抜きに考えていたら、恐らく問題は永遠に解決しないだろう。


BIOSとOSとアプリケーションの違いを理解した上で、言葉や文明を持っていなかった狩猟時代の「ヒト」と言う獣を考えて見る。

集団で狩をするから獲物が仕留め易く、集団で生活するから外敵からも身を守りやすい。

身近な集団を作る動物の犬でも、逃げると追いかけてくる。

一匹が追いかけると他の犬も追いかけだす。

つまり、連携して追いかける事が本能(BIOS)にプログラムされている。

それは人間も同じで、誰かが上を見けば上を向きたくなるし、赤信号で待っている時に誰かが一歩出れば他の人もつられる。

何かが流行れば皆が同じ物を持ちたがるのも同じBIOSと考えられる。


次に、子犬などの動物の赤ちゃんの生態を見てみよう。

子供同士じゃれ合って遊んでいる。

その遊び方は、必ず「擬似攻撃」を仕掛けて、攻撃と防護を繰り返し、遊びの中で「狩」の練習をしている。

成犬でも、飼い主とじゃれる時は「擬似威嚇」をして遊びに誘う。


恐らく人間も同じBIOSが生まれながらにインストールされている。

子どもの憎まれ口や悪口、ちょっかい等は、そうしたBIOSによるコミュニケーションを求める行為と考えられる。


子犬同士のじゃれあいも、最初は可愛くじゃれていても、そのうちどちらかが本気で怒り出して喧嘩になる。

それを繰り返して行くうちに、喧嘩に発展しなくなる。


猫でも、生まれたての子猫の頃は本気で噛み付き、本気で爪を出して猫キックしてくる。

そうやって遊んでやっていると、手が血だらけになっていたのが、それを続けていると徐々に爪を出さなくなり、噛む時も本気で噛まなくなり、加減と気遣いを覚えて行った。


こうしたBIOSで考えると、子供にとって「じゃれ合い」や「喧嘩」は、心の成長に必要な事であると考えられる。

じゃれあいの中で、加減を覚えて行くようBIOSがプログラムされていると考えられる。


そう言ったBIOSのプログラムに対し「暴力は駄目」「いじめは駄目」と言うアプリケーションが、小さい時からインストールされると、BIOSの修正と調整が行なわれない。


修正と調整が行なわれないBIOSは、加減を知らないBIOSのまま成長する事になる。

その加減を知らないBIOSの代わりに「道徳」と言うアプリケーションがインストールされる訳だが、システムに負荷がかかればシステムエラーを起し「道徳」と言うアプリケーションは機能しなくなり、加減を知らないBIOSが行動の指令を出す。


幼稚園や小学生の頃は「相手を泣かしたら勝ち」と言う暗黙のルールがあった。

だから必要以上に相手を攻撃する事は無い。

しかし、幼年期にじゃれ合いや喧嘩をせずに「修正と調整」が行なわれずに、「道徳」と言うアプリケーションで制御していると「受験勉強」と言う負荷で、アプリケーションが機能しなくなると、BIOSに行動を抑制する「加減」がインストールされていない為、衝動を制御できずに徹底的にやってしまう。


その時に、群れで狩をするBIOSも呼び覚まされ、連鎖して攻撃してしまう。


また、集団で生活する動物のBIOSには「序列」と言うBIOSがある。

例えば、オスはボスになろうとし、ボスにメスはいない。

これも集団で生活する動物のBIOSである。

そして、基本的な序列は「じゃれあい」と「喧嘩」の中で、お互いの力量を知り認め合う事で序列が決まる。

その中で、必然的に集団の中における自分の居場所を知る。


その経緯を踏まなければ、皆がボスになりたがる。

メスがボスを主張すればオスは従おうとはしない。

少しでも自分より劣っていると思えば見下して従わせようとする。

見下された相手は見下された事に納得出来ない。

BIOS的に考えればこれも当然の事で、序列が低くなれば、ありつける餌が少なくなり、生存の危機になる。

しかし、本来人間の人間たるBIOSとして「協力作業」と言う物が遊びの中でインストールされ、それが「利他行動」の原型になる。

その利他行動により、人間は繁栄を築いて来たのだが、利他行動のBIOSは協力作業をして、一人では出来ない事を他人と協力して成し遂げる経験からインストールされる。

利他行動の基本は、相互利益で、相手に利益を与えても利益を返さない相手は相手にされなくなる。


しかし、子供の頃から「競争」と言うアプリケーションをインストールされていると、利他行動と言うBIOSがインストールされずに育つか、利他行動と言うBIOSと「競争」と言うアプリケーションの間でシステムエラーが起きる。

利他行動と言うBIOSがインストールされずに育てば、徐々に友達が減り孤立化して行き、何故自分が孤立しているのかさえも分からない。

システムエラー系の子供は、心の中で罪悪感に囚われたり、人をやっかむ様になる。


集団で生活する動物が、集団からはぐれる事は、生存の危機を意味し、生存する為の「衝動」が起きる。

それは群れを探そうとしたり、群れに入ろうとしたり、群れの中で自分を主張する行動となる。

生存が絶望的になると、システムエラーを回復させようと「リセット」衝動が出る。



小学生の時代に男の子がやる「スカートめくり」も、心のシステムを考えると必要な事なのかもしれない。

小学生の3~4年生頃までは、「女の子」が男の子とは違うと言う事を知識として知っていても、何がどう違うかを理解していいる訳ではない。

子供の頃は力的にも男女の差は少なく、男女の違いを感じるのは「女の子は・・・」と言う聴かされたアプリケーションで理解しているに過ぎない。


だからコミュニケーションの取り方も男の子と同じ様な取り方をしてしまう。

「スカートめくり」もその一つだ。

男の子同士だと、玉握りもコミュニケーションの一つの切っ掛けなのだが、女の子にはそれが無い。

男の子同士だと、体に対する恥じらいが少なく、女の子も同じだと思っている所がある。

そんな時に、スカートめくりをして女の子が泣いてしまうと、本当はコミュニケーションが取りたくてしたのに、泣かせてしまった自責の念が強く残る。

そして、初めて女の子は弱い存在だと理解し、女の子に暴力を振るってはいけないと言うBIOSが刻まれる。

それはなるべく小さい時に経験した方が心に残りやすい。


一旦BIOSに刻まれると、道徳や理性と言うアプリケーションでコントロールするのと違い、BIOSで制御している為、女性に暴力を振るう事が出来なくなる。


「その時」と言う平面的な時間軸で見ると、泣かされる女の子は損であるが、将来と言う立体的な時間軸で考えると、子供の頃に男の子に泣かされた女の子の涙は先行投資になるのだが、最近の女の子はスカートの下にスパッツを履いている子が多く、スカートめくりで女の子は泣かない。


BIOSではなく、道徳や理性と言うアプリケーションで女性を認識していた場合、システムに負荷がかかりアプリケーションがエラーを起せば「狩猟」本能の攻撃的なBIOSで暴力を振るわれる事になる。

そして、BIOSに「加減」と言う修正プログラムがインストールされていなければ、コントロール不能に陥り、徹底的に攻撃してしまう。


そのシステムの負荷になる物が、女性の攻撃的発言や軽蔑的な発言である。

男のBIOSを考えて見れば、男は狩猟や戦をしてきた攻撃的なBIOSを持っている。

攻撃的な発言は、BIOSが敵として認識させてしまう。


戦中までの日本の家庭は、男尊女卑に見えるかもしれないが、結構理にかなっている。

男の子は、「子供の頃から、父に何か有ればお前が家族を守るんだ」と教えられ、女性は男を立てていた。

男は立てられる事で自尊心を刺激され、ボスと言うBIOSが働き、懸命に家族を守ろうとする。

男の自尊心と言うBIOSを刺激すれば、攻撃性は出ず家族を守ろうとするのだが・・・

今の女性は、男に勝つ事ばかりに意識が行っていないだろうか?


個人的な違いは別にして、社会として男性の自尊心が失われつつ有る様に思える。

その、現われがオタク文化に見受けられる。

彼らは美少女系アニメ愛好者が多い。


美少女系の愛好者に好まれるのが、従順な美少女系で、メイド系の「ご主人様」、妹系の「お兄ちゃん」など、自尊心をくすぐるキャラクターが多い。

逆に「腐女子」系の女性は、お嬢様扱いを望む傾向があり、お互いの理想とする異性像を非現実的な物に求めている傾向が見受けられる。

この傾向の原因となっていると思われるのが、先の「スカートめくり」で、女の子が泣かない事に起因していると思われる。


スカートをめくっただけで泣く女の子は「守ってあげたい」と言う意識が強くなり、必然的にお嬢様扱いになり、男性の自尊心をくすぐるのと同時に、女性のお嬢様扱いされたい欲求も満たされる事になるのだが、コンビニの前で胡坐をかいて座り、弁当を貪り食い、ゴミを撒き散らす女子高生を見ても、「お嬢様」とは感じないだろう。


動物としてのオスのBIOSは「自分の子孫を残す事」で、そう言う視点から見ると「穢れの無い女性」を求めるのは本能なのかもしれないし、動物としてのメスのBIOSと言う視点で見れば、「守られたい」と言う本能の延長に「お嬢様扱い」や「お姫様扱い」があるのかもしれない。

そして「腐女子」のBL思考は、妊娠や出産と言う生々しい現実の無い「美化された性欲」なのかもしれない。






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