論理的思考と理性と宗教心 | JetClipper's Bar

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東京生まれですが、沖縄、多摩ニュータウン、横浜、尼崎、川崎を経て、三鷹市民になりました。

タイトルが堅いものになってしまったが、このところ、論理的思考の重要性という話を良くしている。非論理的で科学的事実から目をそらした感情論や非科学的なものがあまりにも日本ではまかり通りすぎるという危機感が私の中である。少なくとも、世の中が多様化して、今までの「皆まで言うな」とか「空気を読んで」という事は非常に難しく、相互理解を止めて、社会的な弱者が、それがいくら論理的かつグローバルスタンダードであっても、不利益をこうむるという状況は正しくないと考えるからだ。


さて、そうなると論理的思考を突き詰めていくことになり、所謂「理性」というものが絶対的なものになる恐れがある。ここに来ると私はいささか危機感を覚える。

フランス革命が今なお日本の教育では市民革命で最も重要なものだという位置づけで教えると思うが、フランス革命自体が非常に危険なものだった事も知るべきだろう。

確かに特権階級だけが統治機構を構成して市民にアクセス権がなかった状態というのはやはり普通でない状態だろう。その点では共和政ローマの方がより開かれた社会だったと私は考える。そういう面では革命の初期の穏便な状態というレベルで留まっていれば正しかった。

ところが革命の中で主導権争いが起こり、その中で先鋭化したグループが極左的な目標を掲げていく。この構図は後の革命や国家建設の過程でもよく起こることになる。フランス革命ではロペスピエールのジャコバン派の恐怖政治がそれにあたる。それを考えれば共和政ローマの後期もそうした恐怖政治があったから主導権争いという本来の統治行為と関係ない部分が先鋭化することの危険性はもっと前から存在していたと言って問題ないと思われる。


当時のフランスの特権階級、ヨーロッパ全般にいえたことでもあるのだが教会の特権というものが大幅に認められ、国家の保護というものを超えた存在になっていたのは中世の特徴と考えても良いだろう。それに対する反発が宗教改革だったし、フランス革命に繋がっていたのは間違いがない。

ただ、教会の特権を剥奪する過程でキリスト教自体を全て否定するというような動きにまでなったのだフランス革命の行き過ぎた部分だったと私は考える。明治維新の廃仏毀釈も似たところがあるのだが、そこまで踏み込むと色々考察したい事があるので別にする。

現在特権を持つキリスト教を破壊するという事はそれに基づく道徳律や生活の規範というものも否定することに繋がる。だから革命暦が出来たり、宗教を超えた存在としての「理性」というものに対する信仰ということに繋がっていかざるを得ない。


そこで考えなければならないのは、確かに論理的思考というものは自分と他者を区別するところから始まり、相手との共通の言葉や思考方法を刷り合わせていく為の一つの方法なのだが、唯一絶対の方法でもないという事を忘れてはいけない。これは科学至上主義に対する危険性にも通じるのだが、科学で説明できないものは全て存在しないというものや、唯物論というものがそれに当てはまるだろう。

ところが科学で説明がつかない事は人間の生活ではまだまだ多くある。もし科学で全てが説明できたら恋愛なんて非常に楽になるだろう。科学的にパートナーが存在しえるとするならばそれを探す方法を見つければいい。ところがその方法は未だに存在しない。その領域は感情というものが支配する領域だからだ。また、単純な宗教心や信仰心というもの、例えば日々の糧に感謝することから、科学を超越した存在に対する畏れや謙虚さというものまで論理的思考だけでは説明が出来ないものも存在する、という事を認める事が大事だ。


人間が全て感情で生きていれば恐らく人間はとっくに滅びている種族だろう。それが滅びずにこれだけの文明を築けたのは感情の対極に存在する理性や論理的推理・論理的思考というものがあったからだと。

つまり両者のバランスをとって初めて人間が動物としての人間と社会的な存在としての人間とに区別されると私は思うし、子供を教育するという事は、感情の大切さと論理的思考の大切さの両方を教えてそのバランスをどう教えるか、他者との関係のバランスをどうするのか、そういう事を教える事が一番大事だと思う。確かにある程度の部分では知識を詰め込まなければならない。でも学校が知識を詰め込むだけの場所であるというのはおかしい。その中で身につける社会性というものも非常に大事だと。だから幼児教育で重視するべきはそういう社会性というものだと私は常々思っている。


あわせて教えるべきは感情と論理的思考のバランスを一歩進めることになるであろう宗教や信仰心だろう。

フランス革命は宗教を否定するところで先鋭化したし、マルクス主義も宗教を否定する論理だ。それがどれだけ人間の生活をおかしくしたかは20世紀の壮大かつ悲劇的な実験で明らかになっている。

感情も論理的思考や理性も突き詰めてしまうとおかしくなる。だからそのバランスを取るための方法としての宗教や単純な信仰心という畏れは持つ必要があると私は常々考えている。


戦後の日本がおかしくなったのも、最近の保守論調の乱れも、宗教心とか畏れを持つ事でえる謙虚さという事を忘れてしまった事にあるように思う。

もちろん完璧なバランスの上に存在する人間などいない。でもそれに近づこうという努力は必要だし、感情や理性が暴走するのを止めるシステムは必要だろう。


【非常にオタク的な発言になるがエヴァンゲリオンで出てくる三台のスーパーコンビュータ「magi」つまり東方の三賢者による、単純多数決による決定システムはあながち間違いではないのかもしれない】