考えるという行為 | JetClipper's Bar

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東京生まれですが、沖縄、多摩ニュータウン、横浜、尼崎、川崎を経て、三鷹市民になりました。

今週の日経ビジネスの特集で「考え抜く社員」というレポートがあった。

考え抜く、というとものすごく考えているというような感じがするが、そもそも日本の教育で「考える」という事をきちんと教えているだろうか。

本来考える、という事は様々な知識や情報を元に、自分の頭の中でそれを批判的に見て整理して、その上で自分の「考え」というところにたどり着くはずだ。その行為がないまま、誰かの考えた、発言したことを要約して「考えた」というのはとても考えたというレベルではない。
私自身、大学受験というハードルを越えたことがなく、高校から好きな事を研究していたから、自分の頭で考えないで人の意見を丸写しするという事は勉強ではないと常々考えていた。思えばそれは小学生の頃からそういう子供だったようで、丸暗記という事が私は苦手で、論理と流れがないと覚える事が出来ないのだ。だから化学式を丸暗記するという事は出来ないけど、その仕組みや成り立ちを覚えれば丸暗記することなく出てくる。歴史なんて一度も暗記したことがない。せいぜい暗記していいのは、百人一首と古典ぐらいだろう。でも暗記するより、短歌の美しさを楽しみながら、覚えた方がはるかに良く覚えている。丸暗記と考えて覚えるというのは全く違う行為だと私は考える。

そういう意味では、今までの、というより1980年代までの日本では、欧米のモノをいかに早くコピーして消化して、翻訳できるかという事に全精力を注いでも良かった。先に先行事例があるのだから、それをキャッチアップしていけば日本の針路を間違えることはなかったから。
でも、冷戦が終わり、様々な価値観が世界中にあるという多極化の世界になった時、欧米のキャッチアップだけでは現実的ではないという事はもうとっくに分かっていたはずだ。
でも、日本は大学よりも産業界がそういう人材を育成してこなかったし、活用してこなかった。むしろそういう理屈っぽい人間を忌諱する傾向が強かったし、今も強いと考えていい。

しかもこの日経ビジネスのレポートでもそうだが、考え抜くというよりも、実直に積み重ねていった成果であって、仮説思考やブレークスルーする発想力という事はあまり重視されていないように思う。
でも、本当は演繹的な仮説設定とそれを批判的に検証しつつ、新たな仮説に繋がるような形になるのが本来の思考であるべきではないだろうか。帰納法ではブレークスルーする事は出来ない。

「考える」という事の重要性は分かっていても、その方法が分からない人が多いというのも現実。
私が恵まれたのは、その根幹にあるリベラルアーツを高校時代に身に着けることが出来たからだと思う。そういう教養の差が最終的な差になるのではと考えている。