「知らない」ということより「知ろうとしない」方が大問題 | JetClipper's Bar

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東京生まれですが、沖縄、多摩ニュータウン、横浜、尼崎、川崎を経て、三鷹市民になりました。

人間の能力では世の中の森羅万象を記憶し、理解し、説明する事は出来ない。それ以前にまだ分かっていない事の方が実際は多いのかもしれない。今、理論や説明としてなされているものは、もしかすると間違っているかもしれず、ただ反証されていないだけでその地位を守っているだけかもしれないのだ。


そういう点で考えると、「知っている」という事と「知らない」という事の間の差は実はそう大きくない。知らなければ、知ればよいのだから。知ることで知らない、という状態から知っているという状態に変わることが出来る。だから、どんなに年をとっても知らないことがあっても別におかしい事ではない。知らないという状態を認めて、知ることを心がければ結構人生として楽しいのではないだろうか。そういう点では世の中は未知なるものに溢れている。また技術の革新や進歩で、今までは出来なかった事が出来るようになったり、安価で手に入るようになっているものもある。


日本人は確かに新しいものが好きかも知れない。世の中には新しい機能がついた製品やサービスが溢れ、古いものは見向きもされなくなる事が多い。でもそれは本当に必要な新しいものかどうかを誰も考えなかったのかもしれない。だから、日本の家電や携帯電話等は日本独自の進化を遂げてしまい、海外からは余計な機能として見做され、付加価値とはならないケースが多く見られる。新しいものは必ず良い事で、新しいものを知っている人は先見性のある、賢い人だというような風潮が強くあったのも事実。それゆえにメーカーは不要な機能や細部の造り込みまで付加価値と称していた。日本ではそれは良い事だったかもしれないが、国際的にみればそんな機能やそこまでの過剰品質はいらないと見做されてしまった可能性だってある。

そういう点では、「知っている」という事が大事にされてしまったが故に知っている人はより新しいものを知ろうとして、フォロワーがそれを追いかける構図が消費にも反映されてしまったような気がする。


ただ、世の中が成熟していくと、新しいものを作り出すイノベーションや想像力は衰えてしまう。現状で満足してしまい、今まで新しいものを作ってきたイノベーターやクリエイターは権威になってしまい、今までのような大胆な変化が出来なくなり、守りにはいる。消費者も新しいものを追いかける生活に疲れ、今のままで十分、新しい事をしようとか知ろうという気持ちがどうしてもなくなってしまう。ましてや不況になればそういう新しいものに移行する事はリスクを伴うし、それにかかるコストを考えてしまう。

そうなっていくと、良くて現状維持、普通にいっても、じりじり後退・下落していってしまう。今までの知識で固定化してしまい、新しい知識にアップデートもされず、新しい現実を見ないふりをし続ければ、新しいものが終わるだろうというような発想が多数を占めるようになる。


そうなると「知っている」という層と「知ろうとしない」層の二極分化が進む。新しい現実を知り、新しい流れと新しい知識を知る人と、今までがそのまま未来永劫続くという幻想を持って、新しい現実から目をそらし、新しい知識を知る必要がないと考えている人に分かれる。そしてその差が、今の格差社会よりも大きな格差になって出てくるように私は思う。


別に新しいものを消費するのが正しいのではない。今までの常識が通用しなくなった時に、新しい現実を知り、新しい知識を知ることでそれにスイッチできるか出来ないか以前のところで殆んどの人が躓いている気がする。

つまり「知らない」から「知ろうとする」というステップに行かずに、「知ろうとしない」「知らなくてもいい」という知的怠惰だったり、現実から目をそらす行為を続けて、現状維持で進もうとする。

それが消費とか生活、という極々私的な行為の中で、しかもその人が不便や不利益を被るという程度ならば、あくまでその人の責任だ。情報は提供されて、そこにあるのに、それを知ろうとしなかった。法律でも知らないからという理由で罪や義務から逃れる事が出来ないから学ばなければならない。それはあくまで自己責任の問題。言ってみれば知らないことを守ってくれるというのは子供の間だけぐらい。

でも、それが国の方向性を決めることや、国の将来を変えてしまうようなこと、例えば投票行動等で新しい現実から目をそらし、新しい知識と知恵と理論がそこにあるのに、それに手を伸ばすことなく、現状維持や自分だけの利益を考えて行動するのはもはや犯罪に等しいと私は思う。


そういう意味ではテレビのニュースや新聞を全て見る必要は必ずしもない。余計な情報やフィルターが存在していて本当の事が見えなかったりするから。ただ、それは情報の取捨選択がきちんとできる上級者だけが許されるようなもの。本当に何が必要で、大事な事は何か、それを掴み取るのは日頃の訓練と知識・情報の蓄積がないと出来ない。だから世の中で何が起こっているか、という事は最低限知らないといけないことだし、それに触れようとしない人は、成人として問題があると私は思う。


「知ろうとしない」という事で本人だけが不幸になるのは別に勝手にしろ、というレベル。でもそれで周りや子供や孫達を巻き込まないようにしてもらいたい。あえて極論を言えば「知ろうとしない」人たちはもう、現役から退くべきだし、世の中の意志決定に参加する資格がない。意見を言いたければ、まず最低限議論のベースになる情報と知識は持って議論に参加するべき。


そうなると確実に教育の方法は変わるだろう。記憶中心である必要はない。何が大事で、問題のポイントはどこか、という事は最低限義務教育レベルで教えるべきだし、高等教育は専門知識と問題解決の方法、それを支える文化的教養を身につけることに集中するべきだろう。