いよいよ今年も終わりに近づき、
明日からは新しい年を迎える。


毎年この大晦日の日になると思い起こすのは、
4年前の今日に書いた、
「煩悩」と「除夜の鐘」
http://ameblo.jp/jesmotoi/archive1-201112.html


このブログ記事を書いた時、
たくさんの方々から反響を戴いた。


某新聞社では、
「この記事を掲載して良いか?」…


某宗教団体の大幹部からは、
「是非、教祖とお会いしてもらえないか?」…


知り合いの情報提供団体の主催者からは、
「団体の会員にメール配信しても良いか?」…
(※これだけ了承した)


それ以外でも、
プロであるお寺の住職さんや、
キリスト教会の牧師さんからも頂戴した。


実は、
この記事をブログに公開するかどうかは、
書き上げてから随分迷っていた事を思い出す。


私の勝手なインスピレーションによる新説だし、
内容が宗教関係だけに、
各界から批判の声が挙がるかも…と思っていたからだ。


「ほとんど仏教の経典も読んだ事の無い奴が、
こんな勝手な解釈を付けて」…と(笑)。


しかしこの心配をよそに、
批判的な意見は1件もなかった。


意見の中で印象が残っているのは、
ある修行中のプロのお坊さんから、
「欲について長年の疑問がありましたが、
これでスッキリしました!」…と喜ばれた事である。

 

今回は、
ちょっと分かり辛いかも知れないが、
その時の補足と言うか、
それを再度読み直して今イメージに浮かんだ事を話そうと思う。

 

 


除夜の鐘の108つの欲は、
神仏が人間に与えてくれた『喜びの数』でもあり、
全生命の大元でもある『ミネラル元素』の数でもある。

 


この欲が増長され行き過ぎた事を、
『煩悩』と呼び苦しみを生む原因である。


煩悩とは、
人間がいずれ克服しなければならない課題であり、
この行き過ぎた強い欲というものが、
人間の持つあらゆる苦しみの根本的な原因となる。


つまり、
欲の一つである「食欲」も、
無さ過ぎたら餓死し、
有り過ぎたらメタボになって病気で苦しむ。


「性欲」も、
無さ過ぎたら人類は滅亡し、
有り過ぎたら犯罪を生む危険性がある。


「睡眠欲」も、
取り過ぎても取らなさ過ぎても病気になる事が分かっている。


「金銭欲」も、
無さ過ぎても、また有り過ぎても、、
人が離れたりして共通の苦しみを生む。


欲は元々が苦しみではなく喜びであるから、
両極の『調和』さえとれさえすれば、
全ての欲は喜びとなるのである。

 


ではその『調和』とは何か?

 


何を基準として、
『調和』と呼んでいるのか?


なぜ両極に偏ることが、
不調和と呼ばれたり、
不幸を招いたりする結果になるのか?

 

だから多くのお坊さんは、

 

『この両極を取り去り、

中ほどを選ぶ事が調和に繋がり、

幸福になる』…と言ってる。

 

果たしてこの世に、
調和などというものが存在するのだろうか?

 


あの世とこの世、
地球のN極とS極、
天と地、
男と女、
見えない物質と見える物質、
光と影、
社会と個人、
自力と他力、
内と外(裏と表)、
幸と不幸…


全て両極によって、
万物が成り立っている。


この両極を、
『陰と陽』と表現しても良いだろう。


この宇宙も自然界にも、
全てこの両極があるからこそ成り立っているのだ。

 

多くのお坊さんが言うように、

 

この両極を取り去った生き方をしたら、

全てが無茶苦茶になる(笑)。

 


実はこの『陰と陽』のバランスが崩れた事を、
『不調和』と呼んでいるのではないのか?

 


地球の元素、
つまり108のミネラルも、
そのバランスを崩す事が病気を生み、
苦しみの原因ともなるからだ。


あの世の事ばかり話しているスピリチュアルリストは、
周りから、
「あの人、ちょっと変…」と言われる(笑)。


この世の現実社会のことばかり話している人も、
同じように、
「あの人、ちょっと変…」と嫌われがちだ。


地球のN極とS極の両極が無ければ、
地軸が狂い自転も公転もできない。


天と地の境目が無ければ、
私たちは一体どこに住むのだろう(笑)。


男と女の両極があるからこそ、
男女の愛が生まれ、
新しい生命を生む事ができる。


見えない引力や空気や磁力があるからこそ、
目に見える物質の安定やエネルギーが生まれる。


光があるからこそ影ができる。
(※光強ければ闇深し)


個人の集合組織が社会であり、
そこに発展と進化が望める。


天から与えられた環境(他力)があるからこそ、
自力が生まれる。


外界があってこそ内界があり、
表があってこそ裏も存在する。
(※掌は裏でモノを掴み、足の裏で大地を踏みしめる)

 

これらは、

 

その逆もまた真実なのである。

特に幸と不幸は、
一つの現象に対する個別の考え方によるもので、
両極でありながら表裏一体…


つまり、
全て万物に両極があってこそ、
バランスを保とうとする調和というものがあり、
そのバランスが崩れたり偏ってしまうことを、
不調和と呼び不幸を招くのである。

 

 

「調和」とは、
両極を知る事なり

 

 


調和とは決して、
両極を否定して『真ん中』を選ぶ行為ではなく、
両極をバランスよく包括してこそ、
調和と呼ぶと思うのだ。


私はこの両極を包括した『調和』にこそ、
最大の進化や発展のためのエネルギーを発揮するように思える。

 

宇宙を含め、

 

宇宙を創造した神自身が進化するために。


事業においても、
行動や実践による失敗の裏には、
必ず成功が隠されている。


反対に、成功の裏には、
失敗という落とし穴が待ち受けている。


しかし両極を否定して、
何も行動も実践も起こさなければ、
失敗も成功もなく、
流されてしまうかいずれ消滅してしまう。


失敗と成功を何度も繰り返し学ぶことで、
多くのいろんなパターンの両極を経験し、
その体験が本人の器の大きさとなり、
進化へと繋がる。


振り子のように両極を体験し、
失敗し、
そしてそれらを乗り越えてこそ、
真の「調和」が実現する…


言い方を変えれば、
まるで竜巻(スクリュー)のように、
底辺の大きなスパイラルの円弧から、
上に登るに従って徐々に小さな円弧になって勢い(エネルギー)を増し、
天に昇って行くようなイメージだ。


時空の流れがそのようにできているからだ。


底辺が大きな円弧なのは、
経験や知識不足によるものが大きい。


両極を知れば、
どこが果たして中ほどかも見えて来る。


よって時間と空間の《ブレ》も少なくなり、
上に登るに従い、
円弧が小さくなってエネルギー量は強力となる。


最後は一点となり、
両極が集約され、
光の柱となって天に昇る…


このイメージが私の『中道』の考え方だ。

 

両極の全てを網羅する中道。


だからこそ幸・不幸両極の現象が起きたとしても、
全てを受け入れる事ができ、
そして流す事もできるに違いない。

 


全てを受け入れ、
全てを手放す

 


きっとこの欲も執着も超えた心境の事を、
仏教では『悟り』と言うのかもしれない。

 

勿論、

 

私なんぞはまだまだ。。


けれども決して、
「宇宙即我」を体現する事が悟りではない。


ちょっとイメージすれば、
誰でも体現できる事なのだから。


ゴーダマの体現した宇宙即我とは、
質も深さもまるで違うものだからだ。


以上を書いていて、

ある仏教の物語が浮かんだ。


これをご紹介して、
年末のご挨拶にしたい。

 

 

ある日の雨上がり、
二人の僧(信善と宗遠)が泥道を歩いていた。

 

 


そこで、
絹の靴をはいた美しい女性が、
泥道を横切るのに躊躇している場面に出くわした。


橋渡しになるような木も周りには見当たらない。


戒律では、
女性に触れてはならないという厳しい規則がある。


しかし宗遠は、
何も言わずにその女性をひょいとかつぐと、
そのまま道を渡って泥道の向こう側に下ろした。


そして二人の僧は、
無言のままその日の終わるまで歩き続けた。


宿に着いてから、
信善が宗遠を責めた。


「われわれ坊主は、
女性を避けねばならないのは、
お前は知っているだろう?
だのに今日はなぜ女性をかついだんだ!」


宗遠の答えは…


「私は女性を道ばたに下ろしてきたのに、
あなたはなぜ、
今だに彼女をかついだままでいるのですか?」


信善「…」

 

 

 

 

今年は大変お世話になりました。

 

 

 

 


来年も宜しくお願い申し上げます。


JES代表:本井秀定

 

 

 

 


※おまけ

 

 

さてこの人、いったい誰でしょう???(笑)

答えは来年に。。



 

良いお年を!