今日は長男が普通科に入学。 次男は養護学校高等部に入学で、 とても忙しい一日でした。 ネット環境から、このたび退くことにしました。
数年後、ネット環境再開の時、このブログがあるでしょうか・・・?
まずは三年間、堅実に、地味に、真面目に子育てに集中します。
今日は長男が普通科に入学。 次男は養護学校高等部に入学で、 とても忙しい一日でした。 ネット環境から、このたび退くことにしました。
数年後、ネット環境再開の時、このブログがあるでしょうか・・・?
まずは三年間、堅実に、地味に、真面目に子育てに集中します。
長男も、この春から高校生となります
受かって良かったね
次は次男の養護学校入学に向けて、
13日に面接に行ってきます。
12日は長男の医大病院行きやらで、
ヘトヘトになりそうですが、
頑張るべ(*^ー^)ノ
あんまり、ここでこうして書くような事ではないのでしょうが
ど田舎暮らしで、
車の運転しかしない私は、
雪で運休になったバスの変わりに、
列車で高松まで急がなくちゃならなくなった、
あれはつい最近の1月24日朝。
せっかく往復で予約していたバスを諦め、
たまたま休日で自宅アパートにいた妹に泣きつき、
雪の降る中、
駅まで積んで行ってもらった時の話だけどね、
まず、
「あとは出来るわよね?」
と、近くのコンビニで降ろされ、
「うん、なんとか大丈夫と思う」
と返事したは良かったものの、
いざ、
改札口に行くと、
切符の買い方が分らない
「すみません~、列車に乗るの、生まれて初めてなもので分らなくて」
などと訳のわからない赤恥さらして、
みどりの窓口で高松駅まで往復切符をゲットした
それで・・・
切符って、どうすればいいのよ
改札口では皆さんゾロゾロと機械の中にシュッと入れているが
いったい、切符の向きはどっちでいいの
近くにいた案内の駅員さん(たぶん18歳くらい)に、
「すみません、初めてなもので、どうすれば良いのか、サッパリわからなくて(;´▽`A``」
18歳くらいの駅員さん、
優しく教えてくれました(●´ω`●)ゞ
でもきっと(バカなの?)と思っていたはずだわ
それから難関もう一つヽ(;´Д`)ノ
丸亀で乗り換えって、どうすればいいの
私より年上らしき女性に聞いてみる
「丸亀で乗りかえって、どうすれば良いのでしょう」
「え、あ、ええ、そうね。丸亀駅で降りなきゃね:*:・( ̄∀ ̄)・:*:」
「降りた後、どうすればいいんでしょう」
「・・・それは、私にもよくわからないわぁ~」
「そうですか、ありがとうございます(T▽T;)」
。(´д`lll)
おかしいかも知れないけれど
本当に知らない事って、結構あるんですよね~(ノ゚ο゚)ノ
でも心配しなくて良かった
乗り継ぎの詳細は、
ちゃんと車内放送で案内がありました(///∇//)
切符を買う時点からわけが分らないまま・・・
やっとこさ、約二時間が過ぎ
気が付くと、田舎者の私は、
高松駅に、ちゃーんと着いていました
駅に着くと、半年前から予約していた近くのビジネスホテルにのんびり歩き着き
手にいっぱいのお菓子や食べ物を持って入り、
やっとやっと、落ち着いたのでした
翌日、介護福祉士の試験会場はものすごい人ごみ。
一緒に受けた人たちの、
約半分が合格で、半分が不合格の確率だったかな
。(;°皿°)▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
誰のせいにも、するわけじゃあないけれどヾ(。`Д´。)ノ
私の追い込み時期、12月は、
本当に壮絶な事件があったりで、
試験勉強どころではありませんでした。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
でも、今年も不合格通知が来たら、
来年は絶対に合格するよう頑張ります
自分が運転して車で行くより楽ちんな、
列車の切符を買う事、覚えたしネ(/ω\)
今年は忙しいです。
私も国家試験やったけど、
双子の中学生も、
それぞれが新しい学校へ入学できますように
本当に、2月、3月はハードスケジュール
私の可愛い小さな体、持つかしら( ´艸`)
たまには好きな人に、いっぱい抱っこして欲しいところです(*v.v)。
一昨日の事、
私が加入している生命保険の証書を探すのに、
今年二月の引っ越しで行方がわからずあれもこれもと
押入れとかあちこち引っかきまわしていた時の事、
書いた事さえ忘れていた、
次男の成長についてのメモが見つかった。
とても大切な事を記録しているので、
無くしたらいけないと思い、
今日はここに記録を残しておこう・・・
次男 M
平成5年11月吉日出生
40週 2862g
身長46,8cm
双胎 帝王切開
退院時 3316g 人工栄養
一ヶ月検診 F小児科
3590g 52,5センチ
F小児科医師 「股関節が硬いので、開排位に抱くように」
3~4ヶ月検診 ○○先生
6~7ヶ月頃
人の呼びかけに鈍感
手を叩いて呼びかけても振り向かない
7ヶ月 おすわりはしていない
生後二ヶ月までに、泣きひきつけ6回
中央病院で脳波の異常なし(9~10ヶ月の頃)
はいはいの始め=(7月頃)
つたいあるき=○
バイバイ・こんにちはの身振り=○
一才6ヵ月でも背中が真っ直ぐにならない(平成7年5月24日記)
平成7年5月28日
海辺に下りるコンクリートの歩道で転倒。後頭部を強打し、小石大の穴が開き、●HPにて、二箇所2針縫合となる。
転倒したとき、激しく泣いた。泣いているのに、元配偶者は長男を連れて、先へずんずん歩いていくので驚いた。
「ちょっと待って!頭を打ったのよ!戻ってきてーーーーーーーーー!」
私は怒鳴っていた。
元配偶者は、非常事態が理解出来ないのか?
その日私がお願いした、「海で遊ぶ」という予定を急遽変更し、日曜日に病院へ急行することとなり、
元配偶者は立腹していた。
この時、車の中で、次男の脳みそがグルグル動いていたのを、頭部を支えていた私は覚えているが、
あれは本当に怖かった。
「死ぬかもしれない・・・」と本当に思った。
私は気が動転し、泣きじゃくっていた。
市内に、開いている大きな病院があり、事情を話すと直ぐに見てもらえた。
泣きじゃくっている私に、
「あまり自分を責めないで」と、医師。
だけどやっぱり、
私が、手を離してしまったばっかりに、まだよちよち歩きだった次男は砂利を踏んでしまい、
・・・私は取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
平成7年盆に実家へ
次男にささやき声で呼びかけ=反応なし。
この夏、実家の両親に、次男を病院に連れて行くよう指示される。
平成7年11月22日(水曜日)○○園でレントゲンを撮る。
Drより、「体に異常は無し。」
平成8年5月頃(6ヶ月後)来院の指示。
双子の長男よりも、半年ほど精神が遅滞していること、自閉的であることを告げられる。
三歳でもおむつをしている。
3歳
○が書けない
衣服の着脱が出来ない
自分の名前が言えない
耳の聞こえが気になる
自閉的である
平成8年一月
末っ子の出産のため、双子を見てくれる人が見つからず、ベビーホームへ24時間10日間契約で預ける事になる。
この間、次男がひどい咳をしている事がわかる
預けた当初、風邪などひいていなかった。
元配偶者が 自分の母親を伴って次男を●小児科で受診させる。
しかし改善せず悪化。
聞くと浣腸をされただけらしい。
驚いた。
私は入院中であったので、他の病院を受診させるようお願いしたが、
「いっぺん連れて行ったじゃないか!どこへ連れて行けというがじゃ!」と激しく怒鳴られ拒否された。
平成8年1月末、
私が産科医を退院の日、元配偶者の運転で、私が次男を別の小児科へ連れて行く。
医師から気管支炎になっていて、もう少し連れてくるのが遅かったら、
命の危険があった事を知らされ大目玉をくらった。
「どうしてこんなになるまで放っておいた!?死ぬところやったぞね!」
元配偶者は、預けていたベビーホームで、絶対何かされたんだと言い、自分の落ち度は反省していなかった。
平成8年2月20日
元配偶者=長男と小競り合っていた次男の左側頭部を右手で平手打ち。強殴打する。
鼓膜が破れたのでは無いかと、私は殆んど発狂状態で元配偶者を激しく責めた。
2月22日
次男、(生まれて初めて)熱性けいれんで救急搬送される 熱39度4分 国立病院
3月12日
一日に3回けいれんあり 三回目=20分続くので国立へ救急搬送する
CTで脳検査
4月は脳波
平成8年2月~3月20日までに、次男は二階から(階段最上部)4回転落
二回目は状態がひどかったので○○病院へ連れて行く
平成8年5月16日
元配偶者と次男が二階にいた時の事、ドーンという音とともに
突然次男の火の付いたような、「ギャー」という泣き声が・・・
「じゃかましいー!」と怒鳴る元配偶者の声が・・・
二階へ上がると、後頭部から血を流している次男がいて、
知らん顔で背中を向け、テレビを見ている元配偶者の姿が・・・
「どうしたの!」と問いただすが、
「何がや!」と、逆キレ。
「頭から血が出てるわよ!」
次男はたぶん、古いふすまを留めてある、大きく突出した蝶つがいで裂傷していた・・・
(・・・投げ飛ばしたな。)
しらを切る元配偶者に、私は確信した。
その後は毎日、一ヶ月ほどだったか?4キロほど先にある小児科へ通院した。
生活は貧しく、バス代さえ捻出出来ず、私は赤ん坊の末っ子を背中におんぶして、
次男と長男の手を両手に繫いで、
雨の日も、風の日も、次男の怪我の消毒のため、歩いて通院した。
平成9年1月8日中央児童相談所にて、自閉相談
1月22日 1時(予約)
1月31日 中央保健所10時30分~
平成9年3月20日
次男が初めて「おかあちゃん」と言いました。びっくり!この頃、歌を歌います。
次男が 「ゆきやこんこん あられやこんこん ふってはーふってはーまだふりー・・・」 と機嫌よく、
楽しそうに歌います。これにはびっくり!すごいぞ M !えらい!
5才の時、同じく自宅の階段最上部から転落一回
(記憶では、最終的には6回)
平成12年3月23日(木)雨
知能テストの結果、学級へ入れたほうが良いとの結論に。
私はいつも、子供よりパパに神経使っていたので、これからは子供に、愛をいっぱい注ぐ。
ここにはとても書けない、子供たちに対する日常的な元配偶者(子らの実父)の虐待による、
子らの人格形成への悪影響を懸念し、平成15年9月調停離婚は成立した。
私に対する暴力は、精神的、経済的な暴力で、非常に絶えがたく、裁判所の家事相談へも行きました。
離婚調停の日、一円も出せないと言っていたが、私は譲らなかった。
そして、微々たる金額の養育費の支払いが確定したが、
二回ほど振り込んで支払いを絶たれたと思っていたら、子らに会わせなければ払わないとの言い分で、
私は住所を探し出されて、面接交渉権での調停が始まる。
調停の件では、異常なまでにキレ易く、暴力的な性格の元配偶者の行動を危惧し、
地元の刑事に相談と、助言を頂きながら、調停に臨む。
この頃、私はうつ病で治療中でもあった。
怯える子らに会わすことは出来なかったし、子らも嫌がっていた。
負けるわけにはいかなかった。
何もかも一人で背負って・・・
苦しかった~
ところが、話のわからぬ裁判所の調停員には心底腹が煮えくり返っていた。
あまりにも血の繋がりを強調したがる調停員の頭の古さに呆れて、
何度か弁護士に相談しに行ったたものだ。
平成18年1月末、
調停最終日、調停の終了後、精神状態が非常に不安定だったらしく、
うつ病の内服薬を多量摂取してしまい、意識混濁となり路上に倒れる。
最初の、通行人の一人の声を今でも覚えている。
「大丈夫ですか!」
周りの人たちの通報で、救急搬送され、3日間入院の後、10日ほど、自宅療養が必要となる。
心身ともに、疲れきっていた。
生きているのが、空しく感じていた。
現実って、なんだろうと、悲しくて仕方がなかった。
平成18年2月 退院後、両親と一緒に精神科へ受診
精神科医より、「あなたはうつ病では無い」と言われる。
ODをしてしまい、担当医からは、解離性障害・・・と言われた。
そして地元の裁判所から届いた調停の結果に不服があり、高等裁判所へ抗告文を提出する。
私は負けない。
自分に負けたらいかんのよ。
私が死んだら、私の子供たちは連れ戻され、毎日恐怖の中で暮らすことになるから。
子供たちを守るため、法律の本を何冊も購入し、読み漁った。
抗告文が出来上がり、高等裁判所に思いを託した。
高等裁判所から、封書が来て、結果に八割がた、安堵した。
平成18年6月
長男=難病(骨の悪性がん) 骨肉腫が見つかり、7月に大手術となる。
息子への告知には、随分と悩んだものだ。
元配偶者には、一切知らせてはいない。
双子は、今15歳。
母親の私の背丈を、末っ子と共に、軽く追い越してしまった。
三人とも明るく、前向きな子供に育ってくれていると思う。
毎朝、どんなにしんどくても、朝食を作らないという事は無い。
母子四人で緊張感の無い、笑いや冗談の飛び交う食卓が幸せだ。
私には、お金も財産も、何の才能も無いけれど、
愛する子供たちが、三人とも、この世に存在してくれている事自体が、幸福だと感じている。
だからくじけず、子供たちを育てなくちゃ。
まだまだ前途は多難だけれども、
私は少し、歳を重ねてしまったけれども、
子供たちには、 未来があるからね。
私はたぶん今、幸福の中に、生きているのだと思っている。
今朝、
まだ布団に入っている時間帯に、
携帯からメロディーが流れてきてドキ
開けて見ると、
昨年別れてしまった、
元彼のバースデーコールでした
ああ~、いつだったか、
自分の携帯のスケジュールの中に、
設定していたんだ
そっか~、
彼、今日で40歳になるんだ
「おめでとう~」
って、伝える事は出来ないけれども・°・(ノД`)・°・
出会った時は、
彼、まだ36歳だったのよね
別れる前、
彼は 結核 で通院中だった。
・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
ちゃんとお薬飲んでいたでしょうか
あれから一年、
完治したのでしょうか
お仕事には、
従事されているのでしょうか
元気でいるのかな
新しい恋人は、
出来たのかな
意に反して、
お別れとなってしまったけれども
好きで好きで、しかたがなかったから、
(おわった・・・)。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
と理解できた時、
私は子供たちの事なんか忘れて、
あの頃は、一時的にですが、
すっかり
女
になっていましたね・・・
死にたい・・・と思いました(ノ_-。)
元彼、幸せに暮らしていると、
嬉しいな(*^.^*)
・・・・生きているのでしょうか(ノ_-。)
私は、生きてます
今日は実家の母が長く育てている、
クイーンエリザベスのバラを切花にして、
自宅の食卓に飾りました
20日に職場の看護師さんに頂いた赤バラが、
今日も綺麗に咲き続け、
うちの庭で咲いた新雪というバラと合わせてみました
窓越しに見えるのも、
私の可愛いバラ達
写真に撮りました
ゴミがゴロゴロする家よりも、
こうして綺麗なバラに囲まれた生活のほうが、
私の美意識に叶っています
なんてね(●´ω`●)ゞ
昨日、勤め先の老人ホームで、
90歳くらいの、
男性利用者様と私との会話
「さんは90歳なんですか!なかなか長生きされていますね。
ところで実際、おいくつの時が、一番良い思い出が残っていますか?」
「そうねぇ、やっぱり小学校に上がる前の、5歳、6歳の頃かね」
「そうなんですかそれはどうしてですか?」
「そりゃあね、川で遊んだり、野山を走りまわっていた頃が、
一番よかったからね」
「そうですよね~あのころに戻りたいですよね」
よく考えるまでもないけれど、
90歳のおじいちゃんと言えど、
元は小さな子供だったんだよね
きっと今でも、心の中は、
純粋な少年の部分が、
あるんだろうな~
私自身、15歳の息子がいる年齢だけど、
心の中は今でも、
厚かましくも3歳の幼児
いつも誰かに甘えたいし、
構って欲しい気持ちが残っている
ちょっと、面倒くさい女でもある
たぶん、きっと
今日は同じ男性利用者様とまた、
話す機会があり、
こんな事を仰っていました。
もうすぐ退所予定なのですが、
「●●荘での体験は良かったですよ。
実はねぇ、わしは最近、歩けるようになってね、
今までは家の者が車で送り迎えをしてくれよったけんど、
歩けるようになったんでね、これからは歩いてみようかと思いよります。
今までは一時間くらい、近所の何とかヘルパーという人なんかが家に来て、
おかずとか色々作ってくれよりましたけんど、
今度から自炊をしてみようかと、思うているところなんですよ。
宗教は無いんですけどね、
昔ね、新聞か何かに書かれてあった、
神は最善を下さる、
という事を、私は常に心がけております。
こうやって歩けるようになったんでね、
やっぱり自分で出来る事は、
自分でやらんといかんと思うのですよ」
まあ、ざっとこんな、長い話を聞かせて下さいました
初めて入所された頃は、
ヨロヨロして、
歩く事がやや困難な状態でしたが、
入所してからは毎日、
西へ東へ出歩いて、
最近は本当にすいすい歩いているので、
なんだか表情も活き活きされていらっしゃいます
歩く事が当たり前な私たち。
そんな当然の事にさえ、
感謝を忘れているような毎日にあって、
この利用者様の「歩ける」事への感謝の気持ちは、
とても素直で清清しく、
何だか神々しささえ感じてしまって
改めて我が身が、
五体満足な健康体である事に、
感謝せずにはいられませんでした
私たちが90歳を迎える頃には、
肉体の老化は緩やかになっているのだろうか?
それとも、
今と変わらず、
しわくちゃのお婆さんになっているのだろか
出来る事ならば、
心身ともに最高に綺麗で健康な、
17歳~18歳くらいのまま、
ほぼ永久に老化すること無く、
長生きしたいものだ。
そういった意味合いでは、
遺伝子操作の科学は大賛成だな~
90歳の利用者様にも、
5歳の頃に戻れる、という希望が叶いますように
今日はおばあちゃんに連れられ、
長男は右足(くるぶし)のレントゲンを撮りに行ってきました。
土曜日なので、急患、という事で。
私は職場の人員不足で病院へ行けず、
と言うか、
上司に事情を話せず、
実家の母にお願いしました
捻挫とも言われず、
靭帯損傷のほうが色濃いみたいです。
五日間くらい腫れが引かなかったら、
再度受診します。
昨日、友人たちと鬼ごっこしていたそうです
15歳で鬼ごっこ(;^_^A
まあ、可愛いというか、
おっちょこちょいというか
で、
来週からまた、
送迎付きで登下校となります
ホントに、
何かと世話の焼ける子です(●´ω`●)ゞ
昨日の午後、二時前に撮影した、
自宅の裏山です
雪が降りましたよ~
jeraたちは、
こ~んな山奥に住んでいるのです
しかし
ありがたい事に、
毎年、
東京に住む素敵な友人から、
カイロが送られてきます
その数、多分万円分くらい
中国語の通訳と言う、
お仕事の関係で、
日本よりもはるかに寒い
北京のほうへ行かれる回数も多く、
友人にとっても、カイロは必需品なのですね~
今年の冬も、
このカイロで家族みな、
ほっかほかに過ごせる事でしょう~
「何もお返しをしていないのですが、
毎年お心遣いして頂き、
本当にありがとうございます」
私も外国語が話せたらな~
ロシア語は興味があるけれど、
挨拶程度しか、まだ無理です
全然前に、進んでいません~
それから、
白い雪の降った昨日、
職場の薔薇好きさんから、
深紅の薔薇を、
切花で一輪、頂きました