ジェンダーフリーの元祖はやっぱりマルクスとエンゲルス | 「ジェンダーフリー」ブッタギリ

ジェンダーフリーの元祖はやっぱりマルクスとエンゲルス

[About ジェンダーフリーの思想的根源]

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ジェンダーフリーとマルクス、エンゲルスとの
思想的系譜の同一性を説明しています。
少し、長いですが、内容的にまとまっています。
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元東京都教育委員 石井公一郎


「主人を出せ、主人を」


 本論に入るに先立って、読者の皆さんには、芝居の一場面を心に描いていただこう。

 浪人者のような侍が、商人の店へ来て何かかけ合いごとの論判をする。番頭手代がお店のためにいろいろ陳弁して要求をきくまいとする。しまいに癇癪を起こした侍は、「お前たちでは話はわからん。主人を出せ、主人を」と怒鳴る。

 主人が出てくる。さすが大店の主人にふさわしい貫禄で、落ち着いて十分に相手の言い分を聞き、自分のいうべきことをいい、結局容れるべきことを聴きいれる。そうして侍も納得して引き上げる。

 ここまでの文章(浪人者の以下)は、筆者によるものではなく、小泉信三(一八八八-一九六六年。経済学者、慶応義塾長)の著作『秩序ある進歩』(全集第十七巻、文藝春秋)のなかに収録された「主人を出せ」と題する一節の冒頭部分である。小泉は続けていう。

「私は先年、さまざまな問題について日本のマルクシストと論議したことがあったが『主人を出せ、主人を。お前たちでは話は分からん』といいたい衝動をたびたび感じたことを告白したい。この場合『主人』というのは無論マルクス自身、『お前たち』はマルクシストである」

 経済学者小泉は、大正末期から昭和初期にかけてマルクスの「剰余価値説」をめぐって、日本のマルクス主義者と熾烈な論争を重ねていた。そのときの焦燥感を芝居好きの彼が巧みな筆で表わしたのが右の一文であるが、さてここで眼を転じて戦後日本で幅をきかせたマルクス主義者とその追随者たちの言動を顧みると、あれこれ思い当たるふしがある。

 いま世間を騒がせているジェンダーフリー運動もその一つだが、奥の院で指揮をとっているのがマルクスであることは疑いの余地がない。

 この小論は、店の主人の論旨とその時代背景を明らかにすることによって、番頭・手代の役柄を(知ってか知らずか)演じている人たちの行動原理を解明することを目的としている。以下の文中にマルクスとエンゲルスが代わるがわるに出てくるが、一心同体の両人だから、どちらが出てきても同じと解釈していただきたい。


「エンゲルスの家族・婚姻論」


 わが国のジェンダーフリー運動と根っこのところで深く関わっているエンゲルスの著書『家族・私有財産・国家の起源』は、ロンドンにおいて一八八四年に出版された。この著書は、マルクスの遺稿「古代社会ノート」を種本にしており、更にさかのぼると、アメリカの民俗学者ルイス・H・モーガンの研究資料に負うところが大きい。

 エンゲルスは同著のなかで、人類の歩みを野蛮・未開・文明の三つに分け、それぞれが下段階から中段階を経て上段階へ進むものとしている。野蛮時代の下段階は人類の揺籃期。中段階で火を使い、旧石器と呼ばれる用具を手にする。野蛮の上段階では、弓矢を発明し、獣を食べ、樹皮繊維の被服を着る。

 未開時代の下段階では、土器の製造、動物の飼育、穀物の栽培。中段階では、潅漑による食用植物の栽培、煉瓦による建造物。上段階では鉄鉱の溶解技術の発明、鉄製スキ・クワによる農業。文明時代は表音文字の発明で幕があくという展開である。

 続いてエンゲルスの議論の焦点は、発展段階に応じた婚姻形態へと移る。野蛮時代においては集団婚-血族を中心にした集団のなかの雑婚。未開時代においては、対偶婚-夫は多くの妻のなかから一人を重要な妻とし、妻も多くの夫のなかから一人を重要な夫とするというゆるやかな結合。次いで文明時代に入ると家父長の権力が強くなり一夫一婦制の形をとるようになる。

 さて、この一夫一婦制であるが、エンゲルスは決してこれを好ましいものと思っていない。アテネの文明社会から十九世紀のイギリス社会に至るまでの一夫一婦制は、妾をもつことや売春婦と戯れることを当たり前とする男性本位の勝手な仕組みだというのである。

 周知の通り、マルクス、エンゲルスは、私有財産制度を人類最大の敵とみなしているので、そのもとで行われる男女間の分業は、男性を支配階級とし女性を被支配階級とする忌まわしい体制づくりに他ならない。

 それではブルジョアジーを倒しプロレタリアートの天下が実現したらどうなるだろうか。共産主義革命が身近にせまっていない時点におけるエンゲルスの予言は次のごとくである。

「生産手段が共同所有に移るとともに、個別家族は社会の経済単位であることをやめる。私的家政は社会的産業に転化する。子供たちの扶養と教育は公務となる。嫡子であろうと庶子であろうと一様に、すべての子供たちの面倒を社会がみる。それによって今日、乙女が思いわずらうことなく恋人に身を委せるのを防いでいるもっとも重要な社会的(道徳的ならびに経済的)要因をなしている『結果』に対する心配がなくなる」(前掲書、土屋保男訳、新日本出版社)

 私有財産制度がなくなり、生産手段が共有化されれば、男女間の愛情は卑しい打算から離れて限りなく純化されていくという楽観論は、余りにも非現実的で論外だが、ここでわれわれが注目しなければならないのは、子供の養育を含む家事の大部分を家庭から切り離し、「社会的産業」へ組みこむべきだと主張している箇所である。


「ボルシェヴィーキ革命後の実情」


 レーニンの死後、後継争いに敗れて追放されたレフ・トロッキーは、著書『裏切られた革命』(一九三六年)のなかで次のように述べている(以下、藤井一行訳、岩波文庫)。

「革命は、いわゆる『家庭のかまど』すなわち勤労階級の女性が幼時から死に至るまで苦役を勤めさせられるあの古風な、かび臭い、よどんだ施設を破壊しようという英雄的な試みをおこなった。

 構想では、病院、託児所、幼稚園、学校、公衆食堂、公衆洗濯所、病院、スポーツ施設、映画館、劇場等々といった完備された社会的な介護・サーヴィス制度が、閉鎖的な零細企業である家庭にとってかわることであった」

 トロッキーは、家事を「苦役」と断定し、それを代行する社会主義施設の「英雄的」役割に期待をかけている。「家庭のかまど」を見る共産主義者の憎々しげな眼指には、思わずハッとさせられる。というのは、日本人の多くが「かまど」から感じとるのは、家族愛の温もりや家事の尊さに他ならないからである。

 引き続きトロッキーの所説に注目しよう。

「連帯と相互配慮によってすべての世代を結びつける社会主義施設が家庭の経済的機能を完全に吸収し、それによって一千年来の枷からの解放が女性にもたらされるはずであった。今のところその課題は解決されておらず、四千万の家庭の圧倒的多数は依然として中世紀の状態のままにおかれている」

 社会主義施設が家事を吸収できなかったことについて彼は、「社会があまりに非文化的であった」「共産党の構想に国の現実の資源が対応していなかった」などと繰り言を述べている。現実には、一九三〇年代に入って、社会主義施設に対する人民の不満が、収拾がつかないまでに累増していったのである。

「家庭のおごそかな復権は、ルーブルの復権と同時にすすめられた」とトロッキーは嘆いている。ソ連通貨ルーブルが安定の緒についた一九三四年は、第二次五年計画の二年目に当たる躍進の年でもあった。ソ連当局にとっては、家庭の尊重と愛国心の高揚を唱えるほうが、社会的施設の改善という気が遠くなるような仕事に取り組むより、遥かに有効で安上りであった。

 ところが、婚姻に関する忌まわしい事態が、思わぬところから発生した。共産主義政権のもとで新たに興隆した特権階級について、トロッキーは次のように述べている。

「資格、資金、役職、軍服の菱形章の数が、次第に大きな意味をもつようになってきた。というのも毛皮、住宅、浴室、そしてあらゆる夢の極致である自動車の問題がそれらと結びついているからである。モスクワでは毎年少なからぬ数の夫婦が一緒になったり別れたりしている。親戚の問題はとりわけ重要な意味を持つようになった。妻の父が指揮官とか有力な共産党員とかであったりすると有利だからである」

 トロッキーは、婚姻と家庭に関するエンゲルスの論理は正しかったが、スターリンのやり方がまずかったから、すべてが台なしになったと悔んでいる。



「時代背景としてのヴィクトリア朝」



 マルクス、エンゲルスの学説に対する理解度を深めるため、両人が長く住みついたイギリス社会の模様を回想してみよう。

 ヴィクトリア女王の長期にわたる在位(一八三七-一九〇一年)のなかで特に「繁栄の四半世紀」と呼ばれたのは、一八五一年の第一回万国博覧会を始点として一八七三年の不況に至るまでの二十二年である。

 ところで、この四半世紀は、不思議にも戦後の成長期の日本を思わせるものが数多くあるので、相違点には目をつぶって、似ているところだけを特筆してみよう。ここで引きあいに出す日本の四半世紀は、一九六四(昭和三十九)年の東京オリンピックから九〇(平成二)年のバブル崩壊までの二十六年間である。

 階級闘争の面から見ると、イギリスでは長く続いたチャーティスト運動が、過激化することによって自らの首をしめる結末となり、続いて長期の好景気が世相の鎮静化を招いたため、プロレタリアート革命の夢は遥か彼方へ押しやられてしまった。日本では、一九六〇年の安保騒動が一段落したあとは、それまでに頻発したストライキに対する国民の嫌悪感もあって、過激派の出番は遠ざかるばかりとなった。マルクスや日本の左翼にとって、具合のわるい世の中になったわけだ。

 繁栄期のイギリスでは、中産階級の拡大と地位向上が顕著であり、才覚と努力によって一代で資産家になる「セルフ・メイド・マン」が数多く輩出された。わが国の成長経済のもとで中産階級の層が著しく拡大したのに似通っている。当時のイギリスの中産階級には、実力以上のぜいたくをみせびらかす「スノビズム」が流行していたので、「ヴィクトリアの虚栄」という表現とともに彼等の姿を嘲笑的に描いた戯画(カリカチュア)が出版物にしばしば掲載された。

 日本に例を求めるならば、「今太閤」ともてはやされた田中角栄が背広・下駄ばきのいでたちで池の鯉に餌をやっている姿などが該当するのではなかろうか。拝金主義や金権政治は、中産階級勃興期における不可避な社会現象であった。

 文学の世界では、イギリスの作家、ウイリアムス・M・サッカレーが当時の風潮を揶揄した『虚栄の市』が有名だが、日本でも同じようなキャラクターを取り扱かった山崎豊子の『華麗なる一族』がサッカレーほどではないが、かなり広く読まれた。

 以上、ヴィクトリア繁栄期と成長期日本の奇妙な類似性について略述したが、こうした共通の土壌のなかで共産主義者たちは、将来の可能性として何をイメージしていたのだろうか。

 エンゲルスは、マルクスの死後(一八八三年以降)二つの大仕事に取りかかっていた。一つは資本論の残部をまとめあげることであり、もう一つは、人類の発展段階における家族と国家の形態を解明することであった。前者は資本主義の打倒を、後者は家族・国家の解体を説くものであり、この二つが車の両輪となってプロレタリア革命を必然ならしめるというのである。


「活路を求める日本左翼」


 バブル崩壊で繁栄期に別れを告げた日本においては、倒産件数の急増、失業率の上昇などによる社会不安が広まっているが、左翼に対する国民の期待は低下するばかりである。

 こうした逆境のなかで彼等が懸命に取り組んでいるのは、エンゲルスが構想した車の両輪の一つ、即ち「家族の解体」と「国家の弱体化」である。

 ジェンダーフリー運動は、右の目的を達成するうえに、先駆的役割を果たすものだが、そのなかで一番気になるのが、専業主婦に不利をもたらす税制を梃子にして育児の社会化をすすめようとする策謀である。次に問題になるのは、いま法案提出をめぐって政党間の争いになっている「夫婦別姓」だが、これが法制化されれば家族解体の推進力になろう。

 ジェンダーフリーと連携してすすめられている性教育は、やり方が露骨すぎて不評だが、「セックスを大いに楽しもう」という基本趣旨に賛同する者は決して少なくない。

 左翼とフリー・セックスの親和性を証明する史料は数多いが、ここではエンゲルスにしぼって、前掲「未開時代の対偶婚」の項を振りかえることにしよう。

 対偶婚は、一人の男が一人の女性を妻としながら他の数人の女性と性的関係を持ち、女性の側もそれと同じ権利をもつというゆるやかな平等方式だから、フリーセックス推進者にとって好ましい原典になる。

 エンゲルスは、私有財産制度がなく、生産手段が共有されていた未開時代の共産社会を懐かしみ、それを駆逐して出現した文明社会を嫌悪していたので、対偶婚についての記述も、おのずから好意的である。同著のなかでエンゲルスは、中世の騎士と貴族の奥方による「後朝」(訳文による)のシーンを描いた某詩人の文章を、「すばらしく美しい」と誉め称えている。堅物エンゲルスの意外な側面を表わす面白い話ではないか。

 婚姻から国家へ話を移すと、弱体化の担い手としての日教組(旧社会党系)と全教(共産党系)の活躍ぶりが目に浮ぶ。彼等の組織力によって選択されている日本史教科書は、階級闘争史観・自虐史観に満ちており、「こんな国に生まれたのが身の不幸だ」という観念を児童・生徒に植えつけるのに成果をあげている。

 原典であるマルクス、エンゲルス、レーニンの国家消滅論は広く知られているので、ここでの引用はひかえておこう。左寄りでない人々を引っぱりこんで、国家弱体化の運動に加担させるには、いま流行の「グローバリゼーション」「地球市民」といった耳ざわりのよい標語を使うのが有効であろう。

 おかしなことに、偏向教員やジェンダーフリー活動家の多くは、自分たちのことをマルクスとは無関係だと主張してやまない。傍目からは、どう見ても同種同根ではないか。

 古くて権威のあるほうが主人であり、後になって似たような文句を叫んでいる徒輩が、即ち番頭・手代なのである。

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